期末試験がようやく終わりを告げた。ついに明日から、待ちに待った夏休みが始まる。
休み中の予定について話し合う声、放課後の寄り道に友人を誘う声、課題について文句を垂れる声――内容は違えど、教室中が浮ついた雰囲気に包まれているのは明白だった。そしてわたし自身も、例外ではない。学生である以上、やはり長期休みは心躍るものだ。たとえ特別な予定がなかったとしても。
クラスメイトたちが次々と教室を後にする中、わたしは自分の席で、今日配布されたばかりのプリントに目を通していた。きっと不要だろうし、古紙回収ボックスにでも入れていってしまおうか、などと考えていたところだった。
「おーい、苗字ー」
そのとき、少し離れた場所からわたしを呼ぶ声がした。身体がかっと熱くなる。声の主は、つい最近付き合い始めたばかりの恋人、忍足謙也くんだ。教室の扉近くに立っていた謙也くんは、目が合った瞬間、優しい笑顔を浮かべてこちらに手を振った。
「帰るでー」
「今行くっ」
謙也くんを前にすると、それまで考えていたことなんて、あっという間にどこかへと吹き飛んでしまう。手にしていたプリントを慌てて学生カバンにしまい、わたしは急いで席を立った。
謙也くんと一緒に帰るのは久しぶりだ。活動の有無が定かではない謎部活所属のわたしに対し、テニス部員である謙也くんは、普段から忙しい日々を過ごしている。帰宅の時間がほとんど合わないせいで、付き合い始めてからも、わたしたちが一緒に帰った回数は片手で数えられるほどしかなかった。そのため、わたしにとって、今日のような全部活が休部となる職員会議の日は、とても貴重でありがたいものなのだ。
他愛もない会話をしながら、この時間を噛みしめるように、意識してゆっくりと歩みを進める。普段はせっかち気味な謙也くんも、一緒に帰るときだけはいつも、わたしの歩調に合わせて歩いてくれた。
「そういえば今日、夏期講習のプリントもらったよね」
「ああ、駅前の塾のやつな」
「それ。謙也くんはどうする?」
「俺は参加するで」
迷う素振りもなく、謙也くんは即答した。意外な返事だった。
「親が参加せぇ言うてやかましいからな。小学んときから、夏と冬は欠かさず参加しとる」
「そうだったんだ」
言われてみれば、プリントには小学生コースの案内も載っていた気がする。謙也くんのおうちはお父さんがお医者さんだから、きっと教育熱心に育てられてきたのだろう。
謙也くんが長期休みに何をしているのかなんて、付き合い始めるまではまともに考えたこともなかった。というより、部活で忙しくしているのだろうと、どこかで勝手に決めつけていたのかもしれない。
今までただのほほんと過ごしてきただけの自分と、部活も勉強も両立している謙也くん。その差がとんでもなく大きいもののように感じられて、なんとなく落ち込んでしまう。わたし、謙也くんの彼女としてこれでいいのだろうか。
「……ほんまのこと言うと、今年は参加したないんやけどなぁ」
勝手に沈みかけているわたしの傍らで、謙也くんが呟くように言った。
「せっかく苗字と付き合えて、初めての夏休みやし……ほんまは、もっと苗字との時間も欲しい」
謙也くんはそこまで言うと、わたしの視線を避けるようにぱっと顔を背けてしまった。そのとき少しだけ見えた頬が赤らんでいて、その様子に、わたしの胸がきゅっと音を立てる。
たしかに、謙也くんの言うとおりだ。そこまで考えが至らなかったけれど、この夏休みは、謙也くんと付き合って初めての――いや、中学生活最初で最後の夏休みだ。わたしだって、謙也くんともっと一緒にいたい。
「わ……わたしも、参加しようかな」
自分の口から出てきた言葉に、内心自分でも驚いた。なんて無責任なことを口走ってしまったのだろう。
「え、ほんまに?」
とはいえ、謙也くんの輝いた眼差しに射抜かれて、誰が前言撤回などできるだろうか。
「うん。もう受験生だし、そろそろ真面目に勉強しないとなぁ、て考えてたところだから」
というのは、もちろん建前だ。本当は、謙也くんと一緒にいられる時間を少しでも増やしたい、その一心だった。それなのに、そんなわたしの小さな嘘なんて知る由もなく、謙也くんは嬉しそうな笑顔を浮かべた。
「気乗りせんかったけど、苗字が一緒なら俄然楽しみなってきたわ」
「親にお願いしてみるね」
「おう。もしオッケー出たら、そんときは一緒に行こな」
そこまで言って、謙也くんは何かを思い出したように「あ、けど」と言葉を続ける。言いながら、どこか照れくさそうに人差し指で頬を掻いていた。
「その……もし夏期講習がダメでも、ちゃんと、デートはしよな」
「謙也くん……」
途端に胸が熱くなる。なんだか涙が出てしまいそうだった。
誰よりも忙しいはずなのに、それでもこうしてわたしのことを気にかけてくれるなんて、このひとはどこまで優しいのだろう。謙也くんの思いやりと優しさは一年生のときから知っていたけれど、一友人ではなく恋人として向けられるその優しさは、もっとずっと温かいものだ。優しい熱で心が溶かされて、胸に詰まった想いが溢れ出してしまいそうになる。
「好きやで、苗字」
目を見て真っ直ぐに伝えてくれるこの言葉も、日を追うごとにその温もりが増しているように感じられた。
「……うん、わたしも」
――大好きだよ、謙也くん。
冷房のよく効いた教室は、むしろ少し肌寒いくらいだった。現在わたしは、見慣れない教室で、見慣れない人たちに囲まれながら、謙也くんの到着を待っている。まさか本当に、ここで勉強をすることになるなんて。親が参加を許可してくれたことは嬉しかったけれど、今までこういう場所にはあまり縁がなかったせいで、ひどく居心地が悪い。
落ち着かない気持ちで壁掛け時計に目を向ける。一コマ目の開始まであと数分というところだった。それなのに、謙也くんは一向に現れない。部活が長引いているのだろうか。
いよいよ他の受講者たちが席に着き始めたところで、教室の後方にあるドアが音を立てた。振り返るとそこには、周囲を見回している謙也くんの姿があった。
――よかった、間に合ったんだ。
居場所を知らせようと手を振りかけたその瞬間、どこからか「ケンヤ!」と大きな声が聞こえてきた。当然、その声は呼ばれた本人の耳にも届いたようで、謙也くんはわたしがいる場所とはまったく別のほうに顔を向ける。わたしもその視線を追って声のしたほうに目をやると、後方の席に他校の女子生徒が見えた。
「おー! お前も来てたんか」
その瞬間、わたしの胸がいやな音を立てて脈打った。
「当たり前やん! アンタに皆勤賞の座は譲られへんからな」
「いやだから、俺べつに競ってへんて」
その女の子は「もう先生来るからここ座り!」と言って、自分の隣を指した。謙也くんは少し迷ったように「あー……」と再度辺りを見回す。なんとなく目を合わせたくなくて、わたしは思わず前を向いた。ちょうどそのとき、挨拶をしながら教室に入ってくる塾講師の姿が見えて、背後で「早よし!」と急かすあの子の声がした。そして結局、謙也くんがわたしの隣に来ることはなかった。
「あの……」
呆然とするわたしの耳に、遠慮がちな声が届く。それはもちろん謙也くんの声ではない。横を見ると、講師とほぼ同時に入ってきたらしい滑り込みの受講者が、隣の席にかけてもいいかと尋ねてきた。なんとか動揺を抑えて、わたしは一言「どうぞ」と返事をした。
一コマ目は数学の授業だった。基礎の復習から始まり、徐々に応用へと進んでいく。塾の授業は、初回からすでに学校の授業とは大違いだった。すべてが効率的で、講師の話も簡潔に要点がまとめられている。中には新しい公式や設問の解説まであり、しっかり集中していなければ、すぐに置いてけぼりをくらってしまいそうだった。
それなのにわたしときたら、先ほどのことばかりが気がかりで、授業の内容があまり頭に入ってきていない。せっかく親が許してくれたのに、と理解はしているものの、どうにも身が入らないのだ。
時計を見ても、時間はまだ半分も進んでいなかった。今ここにいる人たちはみんな、勉強をするために集まっている。無駄話はもちろん、講師の話が一区切りつくまでは、質問することさえしない。授業は早いペースで次へ次へと進んでいくのに、時間の流れはそれに比例しないのがもどかしかった。
ようやく一コマ目が終了した。小休憩に入り、受講者たちが一斉に席を立ち始める。わたしもそれに合わせて腰を上げた。謙也くんに声をかけてみようと考えたのだ。時間を置いて、少しだけ冷静になった気でいた。
ところが、謙也くんがいるであろう後方の席を振り返った瞬間、またしても見たくない光景が目に飛び込んだ。謙也くんとあの子が、お互いのあいだに置いた一冊のノートを、一緒に覗き込んでいたのだ。二人は至って真剣な様子だったものの、その身体的距離はとても近くて、少しでも動いたら肩同士が触れ合ってしまいそうなほどだった。その距離感から二人の親しさが伝わってきて、わたしの胸はまたマイナスな感情に支配されてしまう。
――謙也くんとあの子は、どういう関係なんだろう。付き合っているわたしよりも、ずっと仲がよさそうだ。謙也くん、もしかして、本当はあの子のことが好きだったりして。もしそうだったらすごくいやだ。でも、謙也くんのことを疑って、こんなふうに考えてしまう自分はもっといやだ。どうしよう。
謙也くんのことを見つめれば見つめるほどに、心に巣食った不安はどんどん大きくなっていく。そんな状態で本人に声をかけることなんて到底できなくて、わたしは再び席に着いた。
――もう、今日は透明人間でいよう。謙也くんに見つかりたくない。声をかけられたら、わたし、きっと面倒くさいことを言ってしまうから。だから今日はもう、なるべく謙也くんのことは見ない。謙也くんの近くには行かない。
それ以降、わたしは、謙也くんの目に入らないよう注意深く行動した。席を立つときは必ず人の流れに紛れ、謙也くんの近くを通らないように、そして謙也くんがこちらに近づかないように、常に気を張っていた。その甲斐あってか、すべての授業が終了するまで、わたしと謙也くんが関わることは一切なかった。
「ケンヤー、ここ教えてー」
帰り支度をしていると、後ろのほうであの子の声がした。彼女のその言葉は、わたしの脳裏に思い出したくない光景を呼び起こさせる。早くこの場を離れなければ、と半ば使命感にも似たものを感じたわたしは、手早く荷物をまとめ、何も振り返らず教室を後にした。
それなのに、廊下に出た瞬間、大きな声で「苗字!」と呼び止められ、わたしは反射的に足を止めてしまった。わたしを呼んだ声は、紛れもなく謙也くんのものだった。
「苗字、待ってや」
振り返ることができなくて、けれどそのまま無視して逃げることもできなくて、わたしは謙也くんに背を向けたまま固まっていた。背後から伝わる気配で、謙也くんがこちらに近づいてきているということは、なんとなくわかった。
何を言われるのだろう。〝いたなら声をかけてほしかった〟? 〝来ていたことに気がつかなかった〟? それとも――〝紹介したい人がいる〟?
「今日、なんでずっと俺のこと避けとったん」
「えっ」
予想外の言葉に驚いて思わず振り返ると、悲しそうな表情でこちらを見つめる謙也くんと目が合った。その切ない視線は、わたしの中に大きな罪悪感を植えつけた。
わたしの反応を返事として受け取ったのか、謙也くんは話を続ける。
「俺、なんかしたやろか……今日ずっと俺から逃げとったやろ」
「それ、は……」
まさか気づかれていたなんて。頭が真っ白になって、返す言葉が一つも浮かばない。
「苗字は……俺のこと、もう――」
「違う!」
謙也くんの言葉を遮って声を上げたその瞬間、まるで蓋が外れたような感覚がして、胸の辺りから言葉が溢れ出してきた。
「わたしも本当は、謙也くんと話がしたかったよ。謙也くんの隣で勉強したかった」
恥ずかしいとか、これを言ったらどう思われるだろうかとか、そんなことを考える余裕は、もはや微塵も残されていなかった。
「でも謙也くん、隣にいた子と楽しそうにしてたから……それでいやな気持ちになって、この気持ちのせいで謙也くんに嫌われるのが怖くて、近づきたくなかった」
謙也くんはいつだって、真っ直ぐな言葉で、想いで、わたしに向き合ってくれている。それなのに、そんな謙也くんを疑って、あまつさえ傷つけてしまうなんて。わたしは今まで何をやっていたのだろう。謙也くんがそうしてくれるように、最初からこうして素直な気持ちを伝えていたらよかったのに、どうしてそれができなかったのだろう。
「一緒にいられること楽しみにしてたのは、わたしだけだったんだ、て思っちゃって……それで……」
これ以上続けると泣いてしまいそうだった。謙也くんの目を見ていられなくて、思わず床に視線を落とした。
きっとわたしのことを面倒なやつだと思ったに違いない。こんなことで不機嫌になられたら付き合いきれない、とも感じているかもしれない。不純な理由で夏期講習に参加したから、きっとバチが当たったのだ。
考えれば考えるほど、悪い方向にばかり意識が向いてしまう。なのにそれをどうすることもできない。絶えず蓄積していくマイナス感情にいよいよ押し潰されそうになったとき、思いがけない言葉が聞こえてきた。
「……うれ、しい……」
その瞬間、わたしにのしかかっていた重い感情が囁きを止める。
「それってつまり……ヤキモチ、やんな」
わたしははっとして顔を上げた。
「うわ、めっちゃ嬉しい……どないしよ」
独り言のように呟いた謙也くんは、真っ赤になった頬を両手で包み込んでいた。場の空気にそぐわないその様子は、わたしに少しの冷静さを取り戻させた。
「……面倒くさい、て思わないの」
「お、思うわけないやろ!」
今度は顔全体を手で覆い隠しながら、謙也くんは続ける。
「ヤキモチ妬いてくれとる、ちゅーことは……その……苗字がちゃんと俺のこと好きでいてくれとる証拠やん」
身体ごと背けながら「あんまこっち見んといて」と声を小さくする謙也くんの姿を見ていると、なんだか、湿っぽく悩んでいた自分が恥ずかしく思えてくる。
そこでふと気がついた。なんだか視線を感じる気がする。辺りを見回すと、通り過ぎざまにこちらの様子を窺っていた受講者数人と目が合った。その瞬間、全身の熱という熱がものすごい勢いで顔に集中し始める。周囲の視線に気がついたのは謙也くんも同じらしく、見るからに落ち着きを失っていた。
「……か、帰ろか」
「う、うん……」
なんとも気まずい空気の中、謙也くんは荷物を取りに行くと言い、一度その場を後にした。そして一分も経たないうちに戻ってきたかと思うと、「早よ逃げよ」と言いながら突然わたしの手を掴み、半ば引っ張るようにして歩き出した。初めて触れた謙也くんの手はとても熱くて、汗のせいか少しだけ湿っていた。
「えー、これで今季の短期講習は以上や。休み明けの学内テスト、それから模試も、みんな頑張りや。ほな、お疲れさんでした」
塾講師の挨拶を皮切りに、全受講者が一斉に帰り支度を始める。教材や筆記用具を片付けるわたしの横で、謙也くんは大きく伸びをしていた。
「はぁーっ。やーっと終わったなぁ」
「謙也くんは部活もあったから、忙しかったよね」
「まぁなぁ……せやけど、苗字と長く一緒におれたから、オールオッケーっちゅー話や」
親指を立てて、謙也くんはいたずらっぽく笑ってみせた。
「わたしも、謙也くんと一緒にいられて嬉しかったよ」
そう返すと、謙也くんは途端に赤面して、ぎこちなく「お、おう」と相槌を打った。その態度の変わりようがなんだかおかしくて、思わず笑みがこぼれた。
初日の一件以来、わたしは、自分の素直な気持ちを、ちゃんと言葉で伝えられるようになった。謙也くんはその変化を嬉しいと言ってくれたけれど、それでもまだ慣れないのか、わたし以上に照れた様子を見せてくる。あまり照れられるとこちらまで恥ずかしくなってくるので、早く慣れてほしいところだ。
相変わらず気恥ずかしそうにしたまま、謙也くんは「帰るか」と言って席を立った。わたしもそれに続く。教室に残って交流する他の受講者たちを背に、わたしたちは帰路に就いた。
外に出ると、辺りはすでに薄暗くなっていた。冷房で冷え切った身体には、包み込むような生温い外気が心地よく感じられる。駅前ということもあってか、この時間帯は仕事帰りらしき人たちも多く、周辺はいつもより混雑していた。
少しして、一歩先を歩いていた謙也くんが不意に立ち止まった。わたしもつられて足を止める。何かと思って見ていると、謙也くんは「ん」とだけ言って、なぜか低い位置でこちらに手を差し出した。
「えっと……」
これは〝手を繋ごう〟という解釈でいいのだろうか。応え方に迷ってしまい、わたしは謙也くんを見上げた。
「その、はぐれんようにっちゅー意味で……」
遠慮がちにそう言う謙也くんの頬は、少しだけ赤くなっていた。
差し出された手に、恐るおそる自分の手を重ねてみる。謙也くんの手はやっぱり熱い。けれどきっと、わたしの手も同じような温度をしているのだろう。
「ちっこいなぁ、名前の手は」
謙也くんが呟くように言った。
「謙也くんの手が大きいんだよ」
繋がれた手の温もりが、徐々に全身へと染み渡っていく。謙也くんの小さな変化に気がつくころには、もうすっかり、わたしの身体は芯まで熱に支配されていた。
2023-08-02 BACK