涙星

 その日は、朝からずっと雨が降っていた。巨大な雨雲はわたしを嘲笑うかのように悠々と鉛色の空を闊歩し、一筋の光さえ見せようとしない。
 よりによって、どうして今日なのだろう。昨日までは何日も気持ちのいい晴天続きだったのに。
 部屋の窓に滴る無数のしずくを睨みつけて、わたしは何度目になるかわからない溜め息をこぼした。今朝がた大慌てでこしらえたてるてる坊主に触れると、心なしかしんなりしてしまっている。それがさらにわたしの気持ちを落ち込ませた。悪天候はこれだから嫌いだ。
「ナマエー」
 どんよりとした空気に呑み込まれつつあるわたしの耳に、聞き慣れた声が届いた。わたしの部屋から少し離れた場所――この家の下の階――から聞こえたその声が、上がるぞー、と続けるや否や、言葉の終わる前に階段を登る足音が聞こえてきた。
「よう!」
「よう! じゃないよ。わたしの返事を待ってから上がってきてって、いつも言ってるじゃん」
「でもさ、今まで一回も悪いタイミングに来たことなかったじゃん、オレ」
「そういうことじゃなくて……もういいよ」
 この悪天候には不釣り合いとも思える無邪気な笑顔をたたえて登場した、デリカシーのないこの彼は、幼馴染のジュンだ。
 ジュンは遠慮なくわたしのベッドにダイブすると、両腕を枕代わりにして天井を仰いだ。もはや文句も出ない。
「なんだってんだよ、そんなどよーんとしてさ」
「ぜんぶ雨のせいだよ。言葉どおり、予定が流されちゃったし」
 また一つ溜め息をつくわたしに、ジュンは、はぁ? と声を漏らし、むくりと上体を起こした。
「おまえ、なに言ってんだよ。まだ一日は終わってないだろ」
「でも、天気予報では日付が変わるまで雨だって言ってたもん。キャンプなんてできないよ」
 そう、キャンプだ。わたしとジュンは今日、昔よく遊び場として訪れたシンジ湖で、キャンプをしようと約束していたのだ。
 けれどこの天気。可否は明白。久々にジュンとゆっくり過ごせるはずだったこの日を心待ちにしていたのに、天はわたしに対して厳しかった。
「あんなの所詮〝予報〟だろ。オレは止むって信じてる! だからさ、ナマエもそんな暗くなるなって。ほら、笑え!」
 にかっと満点笑顔を浮かべるジュンはまるで太陽のようで、本当に晴天を連れてきてくれるんじゃないか、なんてバカなことを考えてしまう自分がいた。そんな自分に呆れて、はは……と喉につっかえたような鈍い笑い声を出すと、ジュンは、その調子だ、と言って満足そうに再び身体を倒し、天井を仰いだ。

 いつからだろう。わたしの中で、ジュンは〝アイツ〟じゃなくなった。昔は些細なことでケンカをするたびに、お母さんに、アイツが、アイツが、なんて文句を垂れていたというのに。今ではもうケンカすらすることがなくなって、でもジュンはなにも変わっていなくて。自分だけがジュンから離れていっているようで、なんだか寂しいと感じていた。そんな折に、ジュンからキャンプの誘いがあったのだ。
 思い出の詰まった場所で、昔のように二人で時間を過ごすことができたら、きっとまた、わたしはジュンを〝アイツ〟呼ばわりできるようになるかもしれない。このささやかなイベントが、きっとわたしをジュンのところに連れ戻してくれる。そう思った。だから、わたしは今日という日を、首を長くして待っていたのだ。
 キャンプでなければいけない理由はないのだけれど、キャンプをしようと約束してキャンプすることを楽しみにしていたのだから、やっぱりキャンプじゃなきゃダメだ。けれどこんな天気じゃ外を歩くのも億劫だし、今からキャンプの準備をしたとしても、もう時間的に自然と触れ合う余裕もなく夕飯の支度に入らなければいけなくなるだろう。そんなのはわたしが楽しみにしていたキャンプではない。これは、諦めるしかなさそうだ。
 ――などと、しばらくの時間、机に向かってうだうだと考えごとをしていると、背後からジュンの、あ、という声が聞こえた。
「ナマエ! 窓の外見てみろよ!」
 言われたとおりに雨水で濡れた窓を振り返る。すると、突然の眩しさにほんの一瞬だけ目の眩むような感覚がした。
 太陽が顔を出していたのだ。
「へへ、オレの言ったとおりじゃん! 早く行こーぜ!」
「ちょ、ちょっと待って。今から行くの? 地面びちょびちょだし、それに外、寒いし……」
「だーっ! なんだってんだよ! そんなもんシートでも毛布でも持ってきゃいいハナシだろ! キャンプできないーってうじうじしてたのはナマエじゃん!」
「それはそうだけど……」
 いつまでも結論を先延ばすわたしに、痺れを切らした様子のジュンが、気分の高まりを包み隠すことなく言った。
「早くしないとあっという間に夜になっちゃうって! オレ先に行ってテント張る準備してるからさ、ナマエも早く来いよ! 三秒以内に来なかったら罰金一千万円な!」
「ちょっと、ジュン!」
 ドタバタと部屋を走り去るジュンを追い、わたしも慌てて階段を駆け下りる。けれどジュンの姿はもうどこにもなくて、おまけにキャンプ用として準備しておいた荷物も半分以上が消えていた。
 急いで出かける支度を始めたわたしにノンキな笑顔を向けながら、お母さんが、ジュンくんってばいつの間にか力持ちになったね、なんて言ってダイニングテーブルでお茶をすすった。

 案の定、シンジ湖に着いてからはバタバタと大忙しだった。テントを張って、日が沈み切る前に夕食の準備を済ませる。この二つしか仕事はなかったけれど、手慣れていないわたしたちは随分と長い時間を要してしまった。
 準備中、ジュンが足を滑らせて盛大に転倒した。その際に水滴がびちゃびちゃとわたしの方へ飛んできて、お気に入りの服が濡れてしまった。ジュンはわたしよりももっとびしょびしょになっていたけれど、なんでもないような様子でけらけらと笑うから、なんだか自分が服を気にしているのがバカらしくなって、わたしも一緒になって笑った。久しぶりに、ジュンを近くに感じた。
 全ての準備が整ったころ、わたしたちに残されたのは、小さなキャンプファイヤーを囲むことだけだった。辺りはすでに暗くて、あちこちの草むらから夜行性ポケモンの活動音が聞こえてくる。
 持参したシートの上に腰をおろし、ぱちぱちと炎を揺らめかせる焚き火にじぃっと目を向けていると、不意に、隣に座り込むジュンがわたしの名を呼んだ。
「なー、ナマエ」
 わたしは返事をする代わりに、ジュンの方へと顔を向けた。ジュンは空を見上げたまま言葉を続けた。
「オレたちさ、もうずっと一緒にいるよな」
「……そう、だね」
 ジュンの真似をして空を見上げると、そこには満点の星空が広がっていた。
 小さな星たちがキラキラと輝いて、まるで砕け散った宝石みたいだ。この光景をなにかに閉じ込めてペンダントにでもしたい、と一瞬だけ考えたけれど、わたしはすぐに思い直した。この光景はきっと、今ここで、ジュンの隣で見ているから、こんなにも美しいのかもしれない。
 なんだろう、この感じ。なぜだか、今この瞬間、ジュンの手を握りたくてたまらない。手を握って、目を見つめて、それから――。
「……き……」
 伝えたくて、たまらない。
「ナマエ? 今、なんか言った?」
「う、ううん。なんでもない」
 ああ、そうか。やっと気がついた。わたしがジュンのことを〝アイツ〟呼ばわりできなくなったのは、この感情のせいなんだ。ジュンを遠くに感じたのだって、きっと、わたしとジュンの気持ちが通じていないからだ。お互いに向ける心が同じではなくなったから、だからきっと、わたしはジュンから離れてしまったんだ。
 こんなに近くにいるのに。ずっと一緒にいたのに。今さら気がつくなんて。
「……なんで、泣いてるんだよ」
「わ、かんない……」
「ナマエ、笑えよ」
 ジュンの冷えた手が、そっとわたしの手を取った。
「ほら、寒いだろ」
 そして、無造作に放置されていた毛布をもう片方の手で引き寄せると、今度はそれをわたしの膝に優しくかけてくれた。
 こんなのずるい。今まで散々、強引に連れ出して、子供っぽいことに巻き込んで、わたしにむくれたカオをさせてきたのに。今さらこんなふうに優しくするなんて、ずるい。
「ナマエ?」
 こんなことされたら、わたしだって、背伸びせずにはいられなくなる。
「……すき……ジュンが、好き……」
 繋がれたジュンの手に、少し力が入るのを感じた。
 ――言ってしまった。
 焚き火の音だけが静かに響く。明るい炎に目を向けても、涙のせいでぼやけてしまって、その揺らめきを捉えることはできない。
 わたしたち、これからどうなるのだろう。きっと、もう、今までの関係には戻れない。でも、ジュンと疎遠になるのはいやだ。どうしたらいいだろう。
 不安で張り裂けそうになる胸に手を当てたとき、隣でジュンが口を開いた。
「……オレさ、ずっと考えてたことがあるんだけど」
 その語り口は、ジュンにしては珍しく、ゆったりとしたものだった。
「オレたち、今までずっと一緒にいてさ。それが当たり前で、そこに理由とか、目的を探すことなんてなかったよな」
「……うん、そうかもね」
「だから、もし理由が必要になったら、それって、もう一緒にはいられないってことなのかなって思ってさ」
 でも、と、ジュンは続ける。
「今日、ナマエと一緒にいて気づいたんだ。オレがナマエに会うための理由を探すのって、ナマエと一緒にいたいからなんだ、って」
 ジュンの言っていることに関して、わたしはいまいち理解が追いつかないでいる。
 わたしの表情にクエスチョンマークが浮かんでいたのだろうか。ジュンは慌てたように、つまり、と付け足した。身体をこちらに向けて、真剣な眼差しで。
「よくわかんねーけど……でも、理由を探すほど一緒にいたいって思うのが〝スキ〟なんだとしたら……オレも、ナマエがスキだ」
 ああ、ダメだ。また涙がこみ上げてきた。
「……はは。おまえ、泣き虫になったな」
「う、うる、さい……!」
「昔はケンカする度に、鬼みたいなカオしてオレのこと追っかけてきてたのに」
「ば、か……ジュンの、バカ……!」
 やっぱりジュンは子供っぽい。けれど、そんな変わらないジュンの態度に、安心したわたしがいたのも事実だった。
「……あっ! ナマエ、上見ろ!」
 驚いたようなジュンの声色につられて、わたしも思わず顔を上げた。空を見上げるも、そこにあるのはぼんやりとキラキラした暗闇だけで、いったい、ジュンがなにに対してそんなに驚いたのか、わからない。
「あーあ、おまえも泣いてなかったら見えたかもしれねーのになー」
「なにが、見えたの?」
「流れ星!」
 ジュンは得意そうに笑っている。
「なんかさ、ナマエの涙みたいだった」
 きっと、ジュンは気づいていない。自分がちょっとロマンチックなことを言っていることに。子供っぽく、さも自分だけ得をしたかのようなカオをして、さらりとわたしの胸を高鳴らせる。こんな技、いつの間に覚えたんだろう。
「……バカじゃないの」
 言葉では素直になれなくて、繋いだ手に力を込めると、ジュンはなにも言わずそれに応えてくれた。
 冷たかった手はいつの間にか温まっている。
 ああ、わたしは、やっとここに戻って来られたのか。

2020-05-02 BACK