きみに贈る、その日まで

 きらり。
 柔らかい光が部屋の中を明るく照らす、休日の昼下がりのことである。目の前でモンスターボールの手入れをする恋人の姿に、ワタルは違和感を覚えた。その違和感の正体がなにであるのかは、よくわからない。
「なぁ、新しい服買ったのか?」
「え? なに、いきなり」
 唐突なワタルの問いに対し、彼女は訝しげな表情を浮かべた。
「いや、今日のナマエ、なんとなくいつもと違う気がして……」
 そう言って彼女をまじまじと見つめてみるも、彼女が身に纏っている服には見覚えがある。とはいえ髪型を変えたというわけでもなさそうだ。見れば見るほど、いつもと変わらない彼女だ。
 ――いや、待てよ。女性は数センチ単位で髪を切るらしいし、もしかすると自分が小さな変化に気づいていないだけで、実は髪が少し短くなっているのかもしれない。
「……そんなにジロジロ見ないでよ。服も髪も変わってないって」
 呆れたような声色、そして表情。ワタルは苦笑した。
 あまり見るなと言われたものの、やはり気なってしまう。こんなに見ているのに気がつけないということは、極めて些細な変化か、もしくは彼女自身が言ったように、本当になにも変わっていないのか、どちらかだろう。
「さてと」
 モンスターボールの手入れを終えたらしい彼女は、そばの椅子に掛けてあったエプロンを手に取りながらワタルに顔を向けた。
「そろそろお昼にしよっか。なにか食べたいものある?」
「えっ、そうだな……特になにも浮かばないから、ナマエに任せるよ」
 たしかに腹は減っているが、ワタルは、昼食よりもこのもやもやをなんとかしたいのだ。
「わかった。じゃあ、ちょっと待っててね」
 こちらに背を向けて台所へと向かう彼女の姿を凝視するワタル。彼女がエプロンの紐を背に回したとき、なにかがきらりと光を放ち、ワタルは思わず息を呑んだ。
 ――指輪だ。彼女の指の上で、銀色の指輪が控えめにきらきらしている。
 そう、ワタルの感じていた違和感の正体は、まさしくこれだったのだ。彼女は確実に、指輪をはめている。しかも、左手の薬指に、だ。その指の意味するものがワタルの脳裏をよぎり、彼は雷に打たれたような衝撃を覚えた。
 ――これは、もしかして、煮え切らない俺へのさり気ないアピールなのだろうか。いや、しかし、ナマエとはまだ一度もそういう話になったことがないし、ナマエの両親と顔を合わせたこともない。ということは、まさか、男の影がない娘を心配したナマエの両親が、ナマエに見合いをさせて、もうそういう約束をするまでに話が進んでしまっているということなのでは……。つまり、ナマエは俺と別れるタイミングを見計らっている? 自分からはなかなか言い出せないから、ああして俺の前でも指輪をつけて、他に相手ができたことをさり気なく匂わせているのか?
 居ても立ってもいられなくなり、ワタルは慌てて彼女の背を追った。ずかずかと台所へやってきたワタルに、恋人は少し驚いている様子だ。
「ワタル? 食べたいもの思いついたの?」
「な、なぁ、ナマエ……その指輪って……」
 震えそうになる手で彼女の左手を指さし、ワタルはおそるおそる尋ねた。
「ああ、これ? かわいいでしょ」
 彼女は嬉しそうな笑みを浮かべ、ワタルの前に自身の手を差し出す。もっとよく見てくれ、とでも言っているようだ。
「昨日、雑貨屋さんに行ったんだけど」
 彼女はことのいきさつを語り始めた。
 話によると、彼女の指輪は雑貨屋のアクセサリーコーナーで見つけたものらしい。なんでも、ポケモン用と人間用にそれぞれ対となるデザインのアクセサリーが多数置いてあったようで、彼女は自分用に指輪を、そして、パートナーであるニドクイン用に腕輪をそれぞれ購入したのだとか。
 他に男ができたわけではなかった。そのことに、ワタルは一先ず安心した。しかし、他にも疑問は残されている。少し迷いはあるものの、思い切って話を聞いてみないことにはなにも解決しないだろう。
「そ……それにしても、どうしてその指なんだ?」
 その瞬間、彼女の口から、うっ、と声が漏れたのを、ワタルは聞き逃さなかった。
「それは……えーと……」
 なぜか言葉に詰まり始める彼女は、明らかに、なにかを隠しているように見える。ワタルの心がまたもやざわめき立つ。
 ――やはりナマエは俺のことを試しているのだろうか。ゆくゆくはそうなれば、と考えてはいたものの、まさかナマエが、こんなふうに自分の気持ちを匂わせ始めなくてはいけないほどに結論を待ち望んでいたなんて、全く気がつかなかった。とは言っても、今すぐに決められるような簡単な問題ではないし、俺としてはいきなりそういう言葉を交わすより、もっと自然な流れでよく話し合い、ナマエの気持ちも確認しつつことを進めたいし……いや、そもそも、俺のこの考え方は甘えているだけなのだろうか。俺が自分の都合ばかり優先しているから、そのせいでナマエは不安な日々を過ごしているのかもしれない。別の男ができたわけではないにせよ、ナマエは今、俺という男を見極めようとしている……!
「ちょ、ワタル!?」
 勢いよく床に膝をつけたワタルの頭上から、困惑した彼女の声が聞こえた。
「ナマエ、頼む! 少しだけでいい、あと少しだけ、俺に時間をくれ!」
「は?」
「ちゃんと考えてる……前向きに考えてるんだ。言い訳にしか聞こえないだろうけど、俺はナマエの気持ちもしっかり聞いておきたくて、だから、その……」
 このときのワタルからは、チャンピオンの威厳など微塵も感じられない。
「ちょっと、ワタル、本当にどうしたの?」
「不甲斐ないのはわかってるさ。でも、いい機会だから、これからはちゃんと話し合おう!」
 ワタルは彼女の左手を両の手で包み込み、ぎゅう、と力強く握りしめた。彼女は目を見開いて、わけがわからないと言ったような表情をしている。
「不安な思いをさせてしまって、本当に悪かった」
「えっと、ワタル? なんか勘違いさせちゃったみたいだけど、わたしがここに指輪つけてるのは、その……ただのおまじないで……」
 ただならぬ様子のワタルがなにを考えているのか、彼女はなんとなく理解したらしかった。
「……おまじない?」
 今度はワタルが困惑する番である。彼女は申し訳なさそうに眉を下げながら、言葉を紡ぎ出した。
「うん。雑誌に載ってたの。〝左手の薬指に指輪をつけると、恋人との絆が強くなる〟って。そんな子供みたいなおまじない信じてるのかって思われるのが恥ずかしくて、あんまり言いたくなかったんだけど……まさかワタルを追い込むことになるなんて思ってなくて。ごめんね」
「それじゃあ……」
「わたし、全然焦ってないよ。不安も感じてない。ワタルの準備ができたときに、ワタルの心からの言葉が聞けたらいいなっては思ってるけど……でも、一緒にいられるだけで幸せだから、形にはこだわらないよ」
「ナマエ……!」
 ワタルはばっと立ち上がり、その腕で自分より小さな身体を包み込んだ。胸の奥から溢れ出す温かい気持ちを惜しみなく注ぐように、強く、優しく、彼女を抱き締める。
「お前のことは、絶対、俺が幸せにする」
「ふふ、もう幸せだってば」
「いや、もっとだ。世界で一番の幸せ者にしてみせるさ」
 ワタルは、くすくすと笑みをこぼす恋人の左手を取り、薬指の上で静かに輝く指輪をじっと見つめた。
「この指輪、しばらくは外さないでおいてくれよ」
「もちろん、そのつもりだよ」
 柔らかく微笑んだ彼女がどうしようもなく愛おしい。言い表すことのできない熱い気持ちを唇に込めて、ワタルはそっと指輪のそばへ口づけを落とした。
 朗らかな春の光は、どこまでも、いつまでも、二人を優しく照らし続けていた。

2018-04-09 BACK