目まぐるしく空中を動き回るピジョットとチルタリス。お互いに一歩も譲らない状況がしばらく続き、このままではまた相討ちになってしまいかねないと思われた。けれど、わたしは見逃さなかった。ピジョットが、飛行姿勢を整えようと、一瞬だけチルタリスから視線を外したところを。
「しまった――ピジョット!」
その隙を突いて一気に攻め込むと、案の定、ピジョットは大きく姿勢を崩し落下、戦闘不能となった。これによって、わたしは、晴れてハヤトくんからジョウト地方初のジムバッジを受け取ることができたのだった。
チルタリスに抱きついて歓喜の声を上げるわたしの向こうで、ハヤトくんが「よく頑張ったな」とピジョットに声をかけているのが見えた。
「改めて、おめでとう、ナマエ」
「ありがとう! すごく楽しい勝負だったよ」
勝負のあと、わたしたちは二人でポケモンセンターを訪れていた。あの日のように並んでロビーの椅子に座り、ポケモンたちの回復を待っている。
「これから、他のジムにも挑戦するのか?」
「うん、そのつもり。話してなかったけど、ジョウト地方に来たのも、ジムバッジを集めることが目的なんだ」
ハヤトくんは一言「そうか」と言って、わたしから視線を逸らした。
考えてみれば、わたしが今日ハヤトくんに勝利したことで、彼に会う目的がなくなってしまったのかもしれない。『改めて感謝を伝える』という目的は達成できた。そして、『ジムバッジを入手する』という目的も。それはいいことなのだけれど、次に彼に会うための口実が見当たらない。
ハヤトくんはジムリーダーの仕事で忙しいだろうから、そう簡単に個人的な勝負の誘いをするわけにもいかないし、かと言ってジムバッジ取得が目的ではないジム戦を挑むのも、他のジム挑戦者に失礼だろう――と、そこまで思考を巡らせて、わたしは我に返った。こんなことを考えるなんて、まるで、今後もハヤトくんに会うことを望んでいるみたいだ。それは、わたしの旅の第一優先事項ではないはずなのに。
「ナマエ? どうかしたのか?」
あれこれと頭の中でうるさく騒いでいるわたしの様子を、きっと不審に思ったのだろう。ハヤトくんは横から、静かにわたしの顔を覗き込んだ。思いがけず近づいた距離に驚いたのかなんなのか、胸がどくんと大きな音を立てる。
「あ、いや、えーと……またハヤトくんとお別れなのかなって、考えてて……」
――わたしは、本当にどうしてしまったのだろう。またしても反応しづらいことを口走ってしまった。ジム戦まえは彼と再会できたことに浮かれていて、今はジムバッジを取得したことに浮かれている。もう少し落ち着いてものを言いたいのに、口が勝手に動いてしまうのだ。
ハヤトくんは「えっ」と小さく声を漏らして、すぐに口をつぐんでしまった。明らかに、反応に困っている様子だ。
出会って間もない人間にこんなことを言われたら困惑するに決まっている。わたしが彼の立場だった場合も、きっと同じ反応を示しただろう。へんなやつだと思われたに違いない。
「な、なあ、それなら……」
反省して押し黙るわたしの耳に届いたのは、遠慮がちなハヤトくんの声だった。
「電話番号、交換しようか?」
わたしは自分の耳を疑った。驚いてハヤトくんの方を向くと、彼は頬を薄く赤らめてわたしのことを見ていた。
「そういえば、きみ、ポケギアって――」
「も、持ってる! これ……!」
慌ただしくカバンの中を漁り、最近入手したばかりの真新しい機器を取り出す。
地図は彼にもらった物を使っていたし、まだラジオしか利用していないから、わたしはほとんどその機能がわかっていなかったけれど、連絡先を交換した人とは通話もできると説明されたのを、今になってふと思い出した。もちろん、わたしの連絡先リストには誰の名前も載っていない。
なんだか夢みたいだ。電話番号を交換するということは、つまり、どこにいてもハヤトくんと話ができるということなのだから。もちろん、そんなにしつこく電話をかける気はないけれど。
「ほ、ほんとにいいの?」
「もちろん! きみに会えて、勝負できて、おれも嬉しかったから」
ハヤトくんははにかみながら、緊張のあまり震える手でポケギアを操作するわたしに、自身の電話番号を告げた。わたしも自分の番号を伝えると、ハヤトくんは、慣れた手つきでそれを自分のポケギアに登録した。
リストに新しく追加された『ハヤト』の文字は、見ているだけで頬が緩んでしまう。彼と出会ってからというもの、わたしは今までに経験したことのない気持ちの高まりに、身を支配されている。落ち着かなくて、けれど温かい。そんな不思議な感情だ。
「ありがとう、ハヤトくん」
ハヤトくんは、「こちらこそ」と照れくさそうに笑っていた。そのとき、受付からわたしたちの名前を呼ぶ優しい声が響く。
「終わったみたいだな」
ハヤトくんはわたしより一足先にポケモンを受け取り、ポケモンセンターをあとにした。次に訪れるかもしれない挑戦者のために、早々にジムの仕事に戻らなくてはいけないらしい。やっぱりジムリーダーは多忙のようだ。
名残惜しさを感じながらも、わたしは小さくなっていく背中を見送った。
キキョウシティでハヤトくんと別れたあと、わたしはさっそく次のジムへと向かった。
ハヤトくんとのポケモン勝負で学んだことをしっかりと活かすため、ポケモンたちの育成も怠らない。手持ちポケモンの何体かは、道中で進化を遂げてもみせた。
強くなり続ける仲間とともに、わたしはヒワダタウンのジム戦で勝利を収め、そのごも次々とジョウト地方のジムを制覇していった。
そして現在。フスベシティのポケモンジムを背に、わたしは震える手でポケギアを握りしめている。
――ついに、ついにやった。わたしはたった今、ジョウト地方の全てのジムバッジを手に入れたのだ。
ポケギアの画面に表示された名前は、わたしが目標達成の報告を一番最初にしたかったひとの名前だ。彼――ハヤトくんと別れてから、結局、通話ボタンを押すことはなかった。忙しいだろうと遠慮していたのもある。けれど何より、自分の中で確実に膨れ上がっていく、よくわからない感情の答えを見つけるまでは、自分の目的を達成することに集中しなくてはいけない、と決めていたのだ。
キキョウシティでハヤトくんと別れてから約半年間、自問自答を繰り返しながら続けた、バッジ集めの旅。最後の挑戦となる、フスベシティへと向かっていた道中だった。
わたしは、道端にいた二人のトレーナーとダブルバトルをすることになった。結果はわたしの勝利だったけれど、あのとき相手をしてくれた一組の男女は、わたしにこの気持ちのヒントをくれたように思う。勝負に負けたことを悔しがって落ち込む女の子を、パートナーの男の子が優しく慰めていた。この二人のやり取りを見て、わたしは、うらやましいと思った。そして同時に、頭にハヤトくんの顔が浮かんだのだ。
恐る恐る通話ボタンを押すと、独特な電子音が耳元で響いた。思えば、誰かに電話をかけるのは、これが初めてだ。
ばくばくとうるさい鼓動を少しでも鎮めようと、胸に手を置いた、そのとき。電子音が途切れて、懐かしい声がわたしの胸を締めつけた。
「もしもし」
「は、ハヤトくん? ナマエです」
「やあ、しばらくぶりだね! どうかしたのか?」
最後に会ったときと同じ、優しい声だった。目の前にはいないのに、彼の表情が鮮明に浮かんでくる。緊張して震えそうになる声を落ち着かせるために、わたしは、普段よりも少しゆっくりと話をした。
「ちょっと報告したいことがあって……。ジムバッジ、全部揃ったよ」
電話越しに、はっと息を呑む音が聞こえた。
「ついに……やったんだな。……なあ、ナマエ」
心なしか少しだけ低くなったハヤトくんの声に、わたしは耳を傾ける。
「今夜、少しだけ会えないか?」
一瞬で、周りの音が何も聞こえなくなった気がした。聞こえるのは、遠慮がちに「もし、よければ」と続けるハヤトくんの声。そして、力強く響く鼓動の音だけだ。
「……うん。会いたい。ハヤトくんに会いたい」
何を考えるでもなく、わたしの口は勝手にそう答えていた。
ハヤトくんは、わたしに場所と時間を告げると、「待ってるよ」と言って通話を切った。耳に当てたポケギアをしまうこともせず、わたしは、ただただ、その場に立ち尽くす。
嬉しいはずなのに、どうして胸が締めつけられるような感覚がするのだろう。恋とはこういうものなのだろうか。それなら、これ以上に嬉しいことが起きたとき、わたしはきっと死んでしまうかもしれない。
フスベシティに吹く冷気を孕んだ心地よい風が、わたしの火照った頬を撫でつけて、そしてどこかへ去っていった。
ハヤトくんに言われたとおりの時間、約束の場所である自然公園に赴くと、街灯の下に人が見えた。それがハヤトくん本人であることなんて、目を凝らさなくても明らかだ。
ハヤトくんはわたしに気がついたのか、こちらに向かい小さく手を振った。つられて、わたしも手を振り返す。
「久しぶり、ナマエ」
「ハヤトくん……久しぶり」
フスベシティで電話をしたあとから、ずっと落ち着けないでいる。ハヤトくんに挙動不審だと思われないよう祈りながら、わたしは努めて平静を装った。
街灯は所々にあるけれど、夜の闇が少しだけわたしを隠してくれているようで、なんとなくありがたい。
「まずは、改めて。ジョウト地方の全ジム制覇、おめでとう」
「ありがとう」
ハヤトくんは、「少し歩こうか」と言ってこちらに背を向けた。
わたしたちは、しばらくのあいだ、静かに肩を並べて歩き続けた。
街灯が道を明るく照らしている。夜の公園はすごく静かで、時折吹く夜風が草木を撫でる音さえも、やけに大きく聴こえた。
「これからどうするか、もう決めてあるのか?」
沈黙を破ったのは、ハヤトくんだった。
「うん。一度、ホウエンに帰ろうかと思ってる。この先、自分が何をしたいのか、実はまだよくわかってなくて」
「そうか、きみはホウエン出身なんだな。知らなかったよ。ホウエン、か……」
ぽつり。ハヤトくんは、「遠いな」と呟いた。
ハヤトくんの言うように、ホウエンとジョウトは間にもう一つ地方を挟むため、そう簡単に行き来できる距離ではない。もしかしたら、今後、もう二度と彼に会うことはないかもしれないのだ。
――遠い地でハヤトくんのことを考えて、悶々とした日々を送るよりも、いっそ、この場で、自分の中のよくわからない気持ちに決着をつけたほうがいいのかもしれない。
「ハヤトくん」
わたしは、噴水の前で足を止めた。
振り返ったハヤトくんの顔に、月明かりが差している。彼は、月が似合うひとだ。初めて会った日の、月に照らされた彼のあの姿は、今でもよく覚えている。
「わたし、もっと、ハヤトくんのことが知りたかった」
じわじわと熱を帯びる顔も、だんだん加速していく鼓動も、そして、微かに震え始める手も、全て夜の闇に隠れている。大丈夫、きっと彼には見えていない。自分にそう言い聞かせながら、わたしはハヤトくんを見つめた。
「ナマエ……」
ハヤトくんとわたしは、しばらくのあいだ、静かに見つめあっていた。
柔らかな音を立てて戯れる水と、夜風に揺れる草木。その二つだけが息をしている。そんなふうに錯覚させるほどの静寂が、わたしと彼を包み込む。
「……これが最後みたいな言い方、するなよ」
最初に静寂を破ったのは、ハヤトくんだった。
ハヤトくんはこちらにゆっくりと近づいて、わたしの手を取る。思いもよらぬその行動に、わたしの肩はびくりと上下した。不意に繋がれた手は、ふるふると震えていて、これが彼の手なのか、はたまたわたしの手なのか、そんなことは、もうわからなかった。
「おれだって、きみのこと知りたいんだ」
「えっ……」
「キキョウシティで別れてから、ずっと、またきみと話をしたいと思ってた。きみの邪魔をしたくなくて、電話はできなかったけれど……。でも、今日きみから連絡をもらって、思ったんだ。きみに会いたい、って」
すがるような表情。その瞳が、言葉の一つ一つが、わたしの中で霞がかっていたものを光のもとへと導いているように感じられた。
「きっとおれは、今日きみと別れたあとも、またきみに会いたくなる。だから、ナマエ……これが最後だなんて、言わないでくれよ」
繋がれた彼の手に、力が込められるのを感じた。
――ああ、どうやら、わたしが見えていなかったのは、先のことだけではないらしい。わたしは、いま目の前にあるもの、『今、自分がどうしたいか』ということすら見えていなかったのだ。答えはずっと、すぐそばにあったのに。
「わたしも……最後なんて、いやだ」
またハヤトくんに会って、話をしたいし、ポケモン勝負だって、もっとしたい。もっとハヤトくんのことを知りたいし、わたしのことも知ってもらいたい。
言葉にした瞬間、堰を切ったように涙が溢れ出した。
「ホウエンへ行くよ。きみに会いに。だからさ、ナマエも、またジョウトに来てくれるだろ?」
うんうんと頷くわたしの頭を、ハヤトくんは自身の胸に引き寄せた。あの日、荒れる空でわたしを助けてくれたときのように。あのときと変わらず、その胸は温かかった。
2018-01-22 BACK