※夢主の死・義姉設定
かれこれ十五年ほどまえの話になるだろうか。
父が一人の少女を養子に迎え入れた。彼女は天涯孤独の孤児院育ちらしい。とあるチャリティーでその孤児院を訪れた父は、他の孤児たちと行動を共にせず一匹狼を貫く彼女に、目を奪われたそうだ。当時、娘を欲しがっていた母は、養子縁組の話に大賛成の意を示したという。
十歳だったボクには、養子の話なんて現実的ではなく、新しい家族だと彼女を紹介されても、どこか納得できなかったのを覚えている。父にその少女の話を持ち出された数日後、ボクは、生まれて初めて訪れた孤児院で、初めてその少女と顔を合わせた。
彼女はボクよりも三つ年上で、それまで年の近い女性と関わったことのなかったボクは、彼女とどう接していいかわからず、父のそばを離れることができなかった。そんなボクに対し、彼女が向けてくれた優しい笑顔は、今でもボクの胸に刻み込まれている。
〝ダイゴくん、よろしくね〟
彼女の差し出した手を、ボクはためらいがちに握った。
かくして、彼女はその日からボクの義姉になったわけだが、十歳のボクには、やはり、彼女を完全に家族として受け入れることは難しかった。彼女がボクたち家族と衣食住を共にするようになってからしばらくのあいだ、ボクは、彼女とまともに会話をしなかったのだ。
母は娘ができたことを喜び、買い物に連れていったり、彼女に料理を教えたりと、本当の親子のように過ごしていた。父は、仕事の都合で普段からあまり家族との時間を取れていなかったが、彼女が養子に入った最初の一年間は、なるべく一緒にいられるよう努めていたらしい。
一方で、ボクはというと、彼女と顔を合わせるのは食事のときくらいだった。それ以外の時間は、近くの道路まで出歩いて石集めをしたり、父の職場を目的もなくうろついたりして過ごしていた。十歳のボクにとって、彼女は家族の一員ではなく、居候にきた知らないお姉さんだった。一緒にいると、子供ながらに気を遣ってしまうため、ボクは彼女と同じ空間にいるのが苦手だったのだ。
〝姉さんは、ポケモンを持たないの?〟
これは、ボクが初めて、彼女に自分から話しかけたときの言葉だ。このとき、ボクは十二歳、彼女は十五歳だった。
彼女は、驚いたように少しだけ目を見開くと〝持ってるよ〟と言って、ボクにモンスターボールを見せてくれた。
ボクは正直、すごく驚いた。まさか、彼女がポケモンを持っているだなんて、これっぽっちも思っていなかったのだから。しかし、今思えば、それまで彼女と時間を共有しようとしてこなかったボクが彼女のことを知らないのは、当然の話だった。
彼女は持っていたモンスターボールをボクに手渡すと、〝ダイゴが育ててあげて〟と言って、目を潤ませながら笑った。現在のボクだったら断るところだが、当時のボクに、その選択肢はなかった。予期せず与えられた初めてのポケモンが嬉しくて、ボクは即座に頷いたのだった。このときを境に、ボクと彼女は、少しずつ距離を埋めていった。
今となっては、ポケモンをもらった瞬間よりも、彼女がそのときに見せた泣きそうな笑顔のほうが、ボクの脳裏に焼きついて離れない。瞳に溜まった涙の理由を問うことは、とうとうなかった。
ボクが十五歳のとき、彼女は父の仕事を手伝い始めた。手伝いというより、アルバイトというほうが適切かもしれない。父の会社で事務仕事をして、父から小遣いという名の給料をもらっていたようだ。
彼女がカナズミに残る一方で、ボクは二十歳を目前に家を出た。だから、彼女がその後どのように生活していたか、実はよくわからない。基本的にはお互い連絡無精だったため、彼女とは年に二、三回、ボクが実家帰りするときに、顔を合わせるだけになった。
ボクの中で、彼女は昔からずっと家にいるような印象だったけれど、友達や恋人はいたのだろうか。彼女は、久々に一家が揃ったときも、個人的なことはあまり語らなかった。もしかしたら父と母には話していたのかもしれないが、その情報がボクの耳に入ることはなかった。ということは、つまり、やはりボクだけではなく、両親にも何も言わなかったのだろうと思う。
今も昔も、ボクは、彼女のプライベートな部分を、何一つ知らない。
そんなことを、ぼんやりと考えていたときだった。
「ダイゴ、ナマエの部屋を片づけてきてくれないか」
ソファに腰かけるボクの肩に手を置きながら、父が言った。
久しぶりに帰郷しているボクなんかが、彼女の部屋に立ち入ってもよいのだろうか。疑問の念を込めて背後の父を振り返ると、父は苦笑を浮かべた。
「なに、ナマエの手紙に書かれていたんだよ。〝部屋の整理はダイゴにやらせてください〟とな」
父は最後に、「ちょっとくらい、弟らしく仕事しろ」とつけ加えると、ボクに背を向けて去っていった。
残されたボクは、父のうしろ姿が見えなくなるのと同時に、ソファから腰を上げた。彼女の部屋に入るのは初めてかもしれない。少しためらいはあったものの、ボクは彼女の部屋へ向かうことにした。
それにしても、本当にボクでよいのだろうか。同じ女性ということで、母の方が適任な気がするけれど。
「……姉さん、入るよ」
やがて彼女の部屋に着くと、ボクは二回だけノックをし、ゆっくりとドアを開けた。中にはもちろん、誰もいない。そんなことはわかっていても、なんとなく、ノックと声かけを怠る気にはなれなかった。
窓から夕日の温かい光が差し込んでいる。彼女の部屋は、もう整理済みなのではないかと思うほど、きれいに片づいていた。
辺りを見渡すと、机の上に置かれた何かが目に入った。近づいて手に取ったそれは、白い封筒だった。少し厚みがあるということは、中にはちゃんと便箋か何かが入っているのだろう。
封筒を裏返すと、右下に丁寧な字で『ダイゴへ』と書かれている。この手紙は、どうやらボク宛てらしい。開封しない理由はない。ボクは、さっそく封を切り、中の便箋を取り出した。
封筒と同じ白色の便箋五枚には、バランスのよい文字がぎっしりと敷き詰められていた。これは読み応えがありそうだ。
手紙の内容はこうだ。
ダイゴへ
あなたがこの手紙を読んでいるということは、きっと、無事に葬儀を終えてくれたということなのでしょうね。どうもありがとう。棺の中のわたしは、きれいな顔をしていたでしょうか。醜い死に様を晒していないとよいのですが……。
さて、今日は、あなたと少し思い出話でもしようかと思って、筆を執りました。
十五年前、初めて会った日のことを覚えていますか。ダイゴは昔から警戒心が少し強くて、わたしと初めて顔を合わせたときも、父さんのそばを離れようとしませんでしたね。あなたと会うまえに、父さんから、ダイゴは少し人見知りなのだと聞いていました。とはいえ、わたしが笑いかけても、怯えたような表情しか浮かべてもらえなかったのは、さすがに少しだけショックでした。ふふ、懐かしいです。
紙面の文字を目で追っているだけだというのに、まるで、彼女が実際に、ボクの耳に語りかけているように感じられる。
そういえば、最後に彼女の声を聞いたのはいつだったろう。昨年は家に帰っていないから、一昨年だろうか。なんだか、もうずいぶんと昔のことのように感じる。
音のない、懐かしい彼女の声に、ボクは目で聞き入った。彼女は続ける。
あなたがわたしを初めて『姉さん』と呼んでくれたときのことを、わたしはいまだに忘れられません。あの瞬間は、もしかしたら、わたしが人生で一番喜びを感じた瞬間だったかも。あなたはどちらかというと、わたしのことよりも、わたしのポケモンに興味を抱いて声をかけてくれたのだと思います。けれど、それでもわたしは嬉しかった。だって、そのときまで、わたしはずっと、あなたに家族として受け入れられていないのだと、そう感じていたのですから。言葉だけでも、わたしのことを姉として認めてくれて、どうもありがとう、ダイゴ。
――ああ、まさか、こんな形で長年の謎が解けるなんて。
あのとき、彼女が泣きそうに微笑んだ理由は、これだったのか。彼女は、嬉しかったんだ。なぜポケモンについて尋ねたのか、ボク自身はもう思い出せないというのに。
ボクにとっての小さな思い出の一片は、彼女にとって、最高に煌めいた一瞬だった。そう考えると、もっと他に最適なシチュエーションを演出してあげることのできなかった幼い自分が、少し情けない。
後悔にも似た気持ちを胸に、ボクは彼女の言葉を追い続けた。便箋の二枚目後半から四枚目の最後までは、家族でジョウト地方へ旅行に行ったときの感想や、ボクが家を出てから彼女がどんな暮らしをしていたのかなど、当たり障りのない話題が続いていた。しかし、自分のことを語らなかった彼女が感じたこと、見た景色は、そのどれもが、ボクが今まで知り得なかったものばかりで、一つ一つが尊いものであることはたしかだった。
ボクは五枚目の便箋に目を移した。
最後に、ダイゴ、あなたにずっと伝えたかったことがあります。あなたと出会って十五年間、わたしはよい姉にはなれませんでした。わたしはもともと自分のことを話すのが苦手で(そのせいで、孤児院でもずっと一人でした)、正直、あなたとよい姉弟関係を築けたとは思っていません。もしかしたら、あなたはいまだに、わたしのことを姉だと思っていないかもわかりません。けれど、これだけは忘れないでいてほしいのです。
視界が次の行を捉え、ボクは思わず、便箋を持つ手に力を込めた。端がくしゃりと軽いシワを作る。心臓がどくんと大きく脈を打った。
わたしは、あなたを愛していました。
鼻の奥がつんとして、やがて視界がぼやけ始めた。
ボクがうつむいてしまったのは、きっと、夕日の暖色が顔に当たって眩しいからだ。残酷なほどに明るいこの色が、ボクの身体を温かく包み込む。その感覚はまるで、何か優しいものに、そっと身を抱かれているようだった。
あなたは、わたしが人生で初めて愛したひとです。家族として、弟として、そして一人の男性として、わたしはあなたに敬意と愛情を感じています。父さんには感謝してもしきれません。わたしがあまり長く生きられない運命にあることを知って、せめて生きている間だけでも、とわたしに家族を与えてくれたのですから。短い間だったけれど、あなたの姉として生きられたことを、すごく幸せに思います。あなたは生きて、わたしよりももっとずっと、幸せになってください。
手紙の後半に並べられた文字は、滲んでしまってぼんやりとしていた。便箋の最後には、ぶれた筆跡でこう記されている。
追伸 ダンバルは元気ですか?
ボクは、少しシワのできてしまった便箋を折り畳み、そっと封筒に入れ直した。
光の差し込む窓に向かい、モンスターボールを構える。光線と共に現れたポケモンの硬いボディを抱きしめると、ひんやりとした感触が、ボクの火照った顔を冷ましてくれた。その温度は、病院で握った彼女の手の温度と酷似していて、ボクは思わず、ポケモン――メタグロスを抱きしめる腕に、力を込めた。
「愛しているよ……ナマエさん」
濡れた頬を温める日の光から、ボクはたしかに彼女を感じた。
2015-09-22 BACK