棄てたいもの

「今夜、会えないかな」
 懐かしい幼馴染が連絡を寄越してきたのは、昼下がりのことだった。
 今日は挑戦者が少ないのか、チャンピオンである自分を含むリーグ関係者は、いつにも増してひまを持て余している。
 断る理由はない。突然のことに少し驚きながらも、シロナは二つ返事でその誘いを受けた。
 彼女の声を聞いたのは、かなり久しぶりのことだった。幼馴染とはいえ、チャンピオンとして座することになってからというもの、会うことはおろか連絡すらまともに取らないでいたのだ。
 それがこんな唐突に、会おう、だなんて。何かあったのだろうか。
 楽しみである反面、シロナの心には、違和感のようなものが生まれていた。

 指定された場所は、二人の故郷にある、個人経営の小さな居酒屋だった。味のある赤い暖簾をくぐると、すぐに、見覚えのあるうしろ姿が目に入る。
「久しぶりね、ナマエ」
 シロナは迷うことなく声をかけた。
「シロナ! 久しぶり」
 笑顔で振り返った女性は、紛れもなく、約束の相手である幼馴染だ。彼女は嬉しそうな表情で、座敷からシロナに手招きした。シロナは促されるままに、用意された席へ上がった。
 「いらっしゃい」とシロナを歓迎する店主に軽く会釈を返し、彼女は幼馴染の向かい席に腰を下ろした。暖簾と同じ色の座布団が、彼女の腰を柔らかく受け止める。
「元気だった?」
 シロナは幼馴染に問いかけた。
「うん」
 幼馴染は頷くと「とりあえず何か飲もう」と言って、店主に飲み物を注文した。
 すぐに運ばれてきたアルコールのジョッキを手にし、二人は飲み口を軽くぶつけ合う。数年ぶりの再会を喜び合いながら口にする酒というのは、なんと美味なものだろう。
「それにしても、突然どうしたの?」
 会えないか、だなんて。
 シロナが問うと、幼馴染は苦笑を浮かべた。その瞳はどこか寂しげに見えて、シロナは、連絡を受けた際に感じた違和感の正体が、少しだけわかった気がした。何かあったのは間違いないようだ。
 しかし、いったい何があったというのだろう。自分の顔を思い浮かべてくれたことは嬉しいが、それほど、自分にも関連したことなのだろうか。
 違和感の真相に近づけば近づくほど、シロナの疑問は深まる一方だった。
 向かい席で苦笑するばかりの幼馴染を、シロナはじっと見つめた。
「あはは……相変わらず単刀直入だね、シロナ」
 それだけ言うと、幼馴染は、先ほど運ばれてきたばかりの前菜に手をつけた。それにつられるように、シロナも彼女と同じ動作で食器を手に持つ。
 幼馴染は、しばらく無言のまま前菜を口に運んでいたが、何を思ったのか、食器を置くと、静かに目を伏せた。
 不思議に思ったシロナが、「苦手だった?」と彼女に問いかけた。
「……最近、どう?」
 幼馴染から返ってきた言葉は、シロナの問いに対する返事ではなかった。予期せぬ質問に、シロナの思考は一時停止する。
 いつもマイペースを崩さない自分が、今や完全に、幼馴染のペースに巻き込まれている。シロナには、それがなんとなく滑稽に感じられた。
「ええと……それなり、かな」
 捻り出すようにして言葉を返すと、正面の幼馴染は「そっか」と笑った。その目は依然として伏せられている。
 幼馴染は、それから、ぽつりぽつりとシロナに質問を投げかけた。リーグはどうか。研究は滞りないか。ポケモンたちは元気か。あまり意味があるようにも思えない、至って他愛のない質問にも、シロナは気さくに答えてみせた。
 折を見て飲み物や料理に手をつけるシロナとは対照的に、幼馴染の手元にあるジョッキは減りを見せない。とうとうシロナが二杯目を注文したところで、それまで伏せられていた幼馴染の目が、やっとシロナの姿を捉えた。
「誰か、いい人はできた?」
 彼女の言葉は再び、シロナの思考を停止させた。
 ――いい人というのは、つまり、そういう意味の『いい人』で間違いないのだろうか。
「あー……」
 シロナの口から声が漏れた。
 さて、どう答えようか。考えるシロナの脳裏に、ふと知り合いの石マニアが浮かぶ。しかし、その直後に運ばれてきた二杯目のアルコールによって、彼の顔は弾けて消えてしまった。
 あの男はいけない。同業者としては尊敬に値する力を持っているけれど、空間や時間を共有する相手としては向いていないだろう。
 シロナは肩をすくめた。
「そっか……へんなこと聞いてごめんね」
 シロナの様子に、幼馴染はバツの悪そうな表情を浮かべた。
「いや、いいのよ」
 顔にかかった髪を横に流しながら、シロナは苦笑した。
 考えてみれば、これまでポケモンや研究に没頭するばかりで、男性どころか女性とも深いつきあいをすることがなかった。そんなことに、自分だって、今になって気がついたのだ。そんな自分を哀れむ気持ちも、もちろん、何も知らない幼馴染を責める理由も、シロナにはなかった。
「ナマエこそ、どうなの?」
 やっと食事を再開した幼馴染に、シロナは問いかける。この話題を振ってきたのは彼女のほうなのだから、きっとこちらが詮索するのもタブーではないのだろう。
 追加で運ばれてきた料理を口に運び、続いて少しだけ飲み物を身体に流し込むと、幼馴染は、おもむろに口を開いた。
「……実はね、半年くらいまえまで、結婚するつもりだった恋人がいたの」
 時制が過去形だったことには敢えて触れず、シロナは彼女の言葉に耳を傾けた。
「でもね、わたしから別れを告げたの」
「……理由、聞いてもいい?」
 ためらいがちに問うシロナに対し、幼馴染は「うん」と笑みを浮かべた。その優しい微笑みからは、どことなく哀愁が感じられる。
「一緒にいればいるほど、本当のお互いが見えなくなってしまって……。うまく言葉にできないんだけど……」
 なるほど。シロナには、彼女の言わんとしていることが理解できる気がした。
 近づきすぎると、物事の本質が見えなくなる――研究者として、常にそう意識してきた自分に、少し重なるものを感じたからだろうか。
 幼馴染は続ける。
「それでね、最近、部屋を掃除してたら、彼にもらったものが少し出てきちゃって。懐かしい気持ちもあるんだけど、なんとなくムシャクシャして……そしたら、不意にシロナのことが頭に浮かんだの」
 ここにきて、やっと疑問が晴れた。彼女が突然自分を呼び出したのに、大きな理由はなかったらしい。ふと顔が浮かんだから、近況を語りたくなった。ただ、それだけのことなのだ。
「彼にもらったもの……棄てたいんだけど、棄てられないんだよなぁ……」
 幼馴染は「人の気持ちと一緒だね」と、そう言って眉を下げた。
 口元は笑っているというのに、彼女の瞳に浮かぶのは、やはり仄暗い色で。どう言葉をかけてよいのかわからず、シロナはジョッキを口元に運んだ。しかし、いつの間に飲み干したのか、ジョッキを傾けても、落ちてきたのは数滴の雫だけだ。
 すぐに店主を呼びつけて追加の注文をするシロナに、幼馴染が「ねぇ」と声をかけた。
「ゆっくりでも、いいのかな」
 彼女は問う。その声は、心なしか震えているようにも聞こえた。
 彼女の抱えるものはきっと、シロナとはしばらく縁のないものなのだろう。しかし、彼女の問いに込められた気持ちも、その声が震えている理由も、シロナにはわかっていた。
「いいと思う」
 幼馴染にそう返したのと同時に、追加で頼んだ飲み物が運ばれてくる。今度は少し強めのアルコールだ。
「さてと……今日は飲むわよ!」
 声高に宣言するや否や、シロナは、ロックグラスを勢いに任せて空にした。そして密かに決心したのだった。
 次の休みは部屋の片づけでもしよう、と。

2015-09-13 BACK