Kissy-Kissy【後編】

 ナマエのパートナー、フーディンの活躍により、玄関に積まれた荷物は無事に全て部屋の中へと移された。
 荷解きも一段落ついた現在、ダイゴとナマエは、そろそろ夕食にしようかと話し合っている。
「ダイゴ、何か食べたいものはある?」
「ナマエが作るものは全部おいしいから、迷っちゃうな。……あ、そうだ。引っ越し祝いに高級なお肉でも食べようか。もちろんワインも、ね」
 ダイゴの言葉に、ナマエははっとして、「それなら買い出しに行かなきゃね!」と腰を上げた。そんなナマエを、ダイゴはそっと座り直させる。
「ダイゴ……? あ、もしかして、レストランでのディナーのほうがいいかしら?」
 ダイゴの行動に疑問を浮かべるナマエ。ダイゴはゆっくりと首を横に振り、優しい声色で言った。
「買い出しはボクが行くよ。ナマエはここで、ボクの帰りを待っていてくれればいいから」
「そんな……そんなことまでさせられないわ」
「いいんだよ。それに、これはボクの楽しみのためであるところが大きいし」
「ダイゴの、楽しみ……?」
 ふ、と微笑み、ダイゴは、ナマエの手を優しく包み込んだ。
「なんだか、仲の良い新婚夫婦みたいだと思わないかい?」
 ダイゴがナマエの額に口づけを落とすと、ナマエは瞬く間に頬を紅潮させた。眉を八の字にしてはにかむその様子が、ダイゴの心に矢を放つ。
「そういうわけだから、ナマエ、きみはここでボクの帰りを待っていておくれよ」
 ダイゴは立ち上がり、玄関へと歩みを進めた。ナマエもパタパタと彼を追いかける。
「わかったわ、ダイゴ……いえ、あなた」
「あ、『あなた』……! なんていい響きだろう! 帰ってきたら、もう一回言ってもらおうかな」
 悶えるダイゴに「何度だって言うわよ」と返しながら、ナマエは買い出しに向かう恋人を見送った。ダイゴがエアームドと飛び立つ様子を、彼らの影が見えなくなるまで見守っていたナマエは、その姿が完全に空の彼方に消えたことを確認すると、新しい家での一休みを再開することにした。
 そのときであった。
「……なんの音かしら?」
 ナマエが十六号室のドアを閉めたのと同時に、どこからか、駆けるような音が聞こえた。不思議に思ったナマエは風呂場やキッチンを確認して回るが、もちろん何もいない。
「あ、きっとお隣さんね。小さいお子さんがいるのかも」
 そういえば、まだ挨拶を済ませていなかった。思い出したナマエは、再び新居をあとにし、隣室である十五号室のインターホンを鳴らした。
「……あら? いないのかしら」
 反応がない。仕方なしに自室へ戻ろうとするナマエであったが、ふとある物が目に入った。
 それは、十五号室のポストに貼られた、少しだけ傷み始めた貼り紙だった。
「空き室……?」
 そう。十五号室は、空き室だったのだ。
 なんとなく背筋にいやな空気を感じたナマエは、気を紛らわすように、向かいの八号室と七号室を訪ねることにした。しかし八号室は十五号室と同様、空き室である。七号室の住人は、ナマエが十六号室へ引っ越してきたと聞くや、インターホン越しに言った。「引っ越しはもう少し考えるべきだった」と。それだけ言い残すと、そのあとは反応を示さなくなってしまった。
「もう、失礼しちゃうわ」
 気分を損ねられたナマエは、眉間にシワを寄せながら自宅に戻った。
「ダイゴ、早く帰ってこないかしら」
「……ふふっ……」
「――え?」
 リビングでテレビを観ながらぼんやりとしていたナマエは、自身の横に何かの気配を感じた。すぐさま確認するも、そこにはもちろん、何もいない。
「気のせい……よね……」
 再びテレビに顔を向けたナマエだったが――。
「え……どうして?」
 テレビの画面は、何も映していなかったのだ。
 ナマエはリモコンの電源ボタンを何度も押すが、テレビは反応しない。
「なに、これ……」
 呆然とテレビを直視するナマエの耳に、突然、バタン! とドアの閉まる音が聞こえた。ナマエは身を強張らせる。全神経を耳に集中させると、なんと、玄関からナマエのいるリビングに向かって、ゆっくりと近づいてくる足音が聞こえるではないか。その足音は、足の裏を床に這わせるように、ずっ、ずっ、と歩みを進めている。
「だ、ダイゴ……早く帰ってきて……」
 ナマエの身体は動かない――否、動かせないのである。ねんりき、もしくはサイコキネシスをかけられたような感覚だった。主の危機にはいつも自分から出てくるフーディンも、このときばかりは、なぜかボールを揺らすことさえしなかった。
 足音は、確実に近づいてきている。
「ダイ、ゴ……ダイゴッ!」
 ナマエが声を張り上げた瞬間、足音が止んだ。そして同時に、自由の効かなかったナマエの身体は、やっとその恐怖から解放された。
「ナマエ? どうしたんだい?」
「えっ!?」
 背後から聞こえてきたのは、紛れもなく、待ちわびていた恋人の声だ。ナマエは勢いよく振り返った。
「やあ、ただいま」
「ダイゴ……!」
 買い物袋を片手に携えたダイゴに、ナマエは涙を浮かべて飛びついた。
 ダイゴは彼女のただならぬ様子に少し動揺しつつも、温かい抱擁を返した。そして、ふと、テレビ画面に目を向けた。
「ダイゴ! 怖かったわ! 実は――……ダイゴ?」
 黙り込む恋人の態度に違和感を感じたナマエは、ダイゴの顔を覗き込んだ。
 不安げな表情のナマエに、彼は爽やかな笑顔を向け、そして静かに口を開く。
「ナマエ……今日はボクの家においで」
「え? そんな突然……どうしたの?」
「いいから。それから、ここの契約は明日にでも取り消してくれないか。きみにこの家は必要ないよ」
「それって……」
「ボクと、ボクの家で一緒に暮らそう」
 驚きに目を見開くナマエを連れ、ダイゴは足早に十六号室をあとにしたのだった。

 トクサネシティにあるダイゴの家で同棲を始めた二人がのちに聞いた話によると、どうやら、十六号室には霊が棲み憑いているらしかった。
 生前恋人に浮気をされた悔しさで、自ら命を絶ってしまった、元ラブラブカップルの女性の霊が――。

2015-05-22 BACK