ふと窓の外を見ると、いつの間にか、雨が降りだしていたようだった。そんなことにも気がつかなかったのは、ボクが今、ミクリに薦めてもらった気品の漂うレストランにて、恋人のナマエとディナーデートの真っ最中だからだ。
今日はボクにとって、最大の勝負の日だ。これまでたくさんの戦闘を掻い潜ってきたけれど、今日のこの勝負は、今までのようなシンプルな勝負ではない。もっと複雑怪奇で、このボクでさえ結果を予想できない、人生における一大勝負なのだ。
ボクともあろう男がここまで緊張するなんて、勝負相手のナマエは本当に手強い女性だ。
「それで、話って?」
「……もう少ししてから、話すよ」
「そう? 別にいいけど……」
おいおい、ダイゴ。自分から呼び出しておいて、かれこれ三十分も本題を待たせるなんて、失礼にあたるんじゃないか。ボクがしっかりしなくてどうする。ナマエはずっと待ってくれているのに。いい加減、男になれ。
「……とりあえず、お料理食べよう? 冷めちゃうまえに、ね?」
「あ、ああ……そうだね」
しまった。ナマエに気を遣わせてしまった。ここはボクがリードしなければいけない場面なのに。
頭ではそう理解していても、実際のところ、ボクには、目の前の食事に手をつける余裕さえなかった。ボクの身体はパートナーであるメタグロスのごとく――否、メタグロスが氷漬けにされたときと同じくらい、硬直していた。
「ダイゴ」
「は、はい」
「あーん」
「え?」
フォークに刺さった一口大の肉が、目の前に差し出された。緊張のせいで状況が把握できずナマエを見ると、彼女はにこりと微笑んでみせた。その優しい笑顔に、ボクは、身体にかかった余計な力が抜けていくのを感じた。
笑顔一つでボクの緊張を緩和するなんて、ナマエはやはり、すごい女性だ。
「ほら、あーんして。おいしいよ」
「あ、ありがとう……うん、おいしい、ね……」
少し落ち着いたところで、ボクは赤ワインを一くち口に含んだ。口内に広がる程よい酸味が、先に食べた肉の旨味と調和する。この店を選んでよかった。紹介してくれたミクリには、あとできちんと礼を言わなければ。
――しかし、ミクリに礼を言うまえに、言葉にしなければいけないことがある。目の前にいる、誰よりも大切なひとに、伝えなくてはいけないことが。
「ナマエ」
「はい」
「これを……受け取ってほしい。意味はわかるね?」
これは、この日のために準備した物だ。
ナマエの目が大きく見開かれる。目の前に差し出されたリングとボクの顔を交互に見やり、彼女はそっと、ボクの手に、自身の手を重ねた。
「ダイゴ……ありがとう。すごく嬉しい」
「ナマエ……それじゃあ……」
「でも、指輪は受け取りたくない」
「え――」
頭が真っ白になるとは、まさにこういうことなのだろう。このとき、ボクは何も考えていなかった。いや、考えられなかった。ただただ、身体の奥底から、名づけようのない何かがどっと押し寄せてくるのを感じていた。
「どう、して……」
「ダイゴ――」
ナマエの瞳が、揺らめいた気がした。
「なんで……どうしてなんだ。今までたくさん、ボクなりに尽くしてきたし、きみとの将来を考えてきた。きみは……喜んでくれていたじゃないか」
「ダイゴ、違うの」
ナマエの声は聞こえていても、ボクにはもう自分を止めることができなかった。
「きみの喜ぶ顔が見たかった……今までのボクは、それだけで満足だった。けれど今は……今は違うんだ、ナマエ。ボクは今、この指輪に対するきみの覚悟と決心が欲しいんだ」
「ダイゴ、お願い、聞いて……!」
「それとも指輪だけじゃ不十分なのかい? これ以上、何を贈れば、きみはボクの気持ちに応えてくれるんだい? こんなにも愛しているのに……。ボクはもう、きみがわからないよ……ナマエ……」
「ダイゴ!」
ナマエの手に力が込められた。同時に、ボクははっとした。
気がつけば、目の前の愛しい女性は涙を流している。――ボクが、彼女を泣かせたのだ。そう理解するのに、多くの時間は必要なかった。これまで一度もボクの目の前で涙を流したことのない彼女が、今はボクの目を真っ直ぐに見つめながら、泣いている。
「ナマエ、泣かないで。ボクは、きみにそんな顔をさせたかったわけじゃないんだ」
彼女は震える声でボクの名を呼んだ。
「ダイゴ……わたしの話を、聞きなさい」
「は、はい……」
ナマエは一度だけ深呼吸をしたのち、言葉を選びながら、ゆっくりと語り始めた。
「わたしが指輪を受け取りたくないのは……その指輪が、あなたの身分を象徴しているみたいで、いやだから、なの」
「ボクの、身分……?」
「……わたしが欲しいのは、美しい指輪でも、高級品やブランドでも、地位や名誉でもない。ダイゴ、あなたなの。わたしが一緒にいたいのは、デボンコーポレーションの御曹司じゃなくて、ダイゴという、一人の男性なの」
――ああ、そういうことだったのか。
思えば、今までのつきあいの中で、ナマエがボクに物品を要求したことは一度もなかった。それどころか、誕生日や記念日などの折に触れ〝欲しい物はないか〟と尋ねるボクに対しても、ナマエは決まって、〝ダイゴとの時間〟と答えていたくらいだ。彼女は一度たりとも、ボクに時間以外の何かを要求したことがなかった。
しかし、恐らくそのために、ボクは彼女に強く惹かれたのだろう。彼女と過ごす時間の中で、ボクは一人の男になれたのだ。御曹司でもなく、チャンピオンでもない……ただ一人の女性を愛するだけの、なんでもない男に。
「……ナマエ、ありがとう。ボクは、大切なことを忘れていたみたいだ」
涙に濡れた彼女の目元を指でそっと拭うと、冷たい水滴が流れ落ち、テーブルクロスに小さなシミを作った。
ふと窓の外を見ると、雨はいつの間にか止んでいたようだった。
「……ナマエ、やっぱり、指輪は受け取ってくれないかな。身に着けなくてもいい。でも、きみのために、この日のために用意した物だから」
「……うん、わかった」
「そして、そのうえで、改めて聞いてほしいんだ」
ボクは席を立ち、ナマエのそばに跪いた。彼女の手を取るボクに、周囲の視線が集中しているのがわかる。
さすがのボクでも、少し気恥ずかしい。けれど、もう決めたのだ。
「ただのボクに、きみと共にいる未来を下さい」
ナマエははにかんで、小さく頷いた。
2015-04-14 BACK