春爛漫

 ひらひらひら。頭上から舞い降りた、雪のような色をした桜の花びら。一ひら手に取ろうとすると、花びらは逃げるようにボクの手をすり抜けた。それはまるで、近づいたと思ったらまた遠くなる、ナマエさんのようだった。
「キレイだね」
 そう言って微笑むナマエさんは、桜の花よりもキレイだ。本人に直接伝える勇気はないけれど、ボクは心からそう思っている。
 ナマエさんの声を聞くたびに、心がボールのように弾む。ナマエさんがボクを見つめるたび、胸が締めつけられる。少しでもナマエさんに触れられると、触れあったところが火傷をしたようにじんじんと疼く。ボクは完全に、このひとの虜になってしまったようだ。
「テツくんとお花見にこられて嬉しいな」
「ぼ、ボクも! ボクも、ナマエさんと一緒にこられて、す、すごく嬉しいよ」
 どうしてだろう。画面越しだとさらりと言えてしまうはずの言葉は、いざ本人を目の前にすると、のどの奥につっかえてしまう。こういうときこそ、余裕のあるボクでいなければいけないのに。
「わざわざお休み取ってくれてありがとう」
「お礼なんて……ナマエさんのためだもの。ボクのほうこそ、誘ってくれてありがとう!」
 ボクのこの一日は、ナマエさんに捧げると決めたのだ。ライブキャスターの電源も切ったし、他の誰にも邪魔はさせない。ボクとナマエさんだけの一日にしたかった。
「あ、テツくん、見て」
「どうしたの?」
「あそこにシキジカのカップルがいるよ!」
「あ、本当だ……。アハハ、微笑ましいね」
 ナマエさんを見ると、彼女はうっすらと頬を染めていた。その姿に、ボクは鼓動が速くなるのを感じる。ほんのりと朱に染まったナマエさんは、薄い色をした桜の背景とは対照的で、すごく艶やかだ。
「……わたしたちも、あんなふうに見えてるのかな」
「えっ――」
 どくん、と、心臓が大きく脈を打った。
「な、なんてね! 気にしないで!」
 気にしないわけにはいかない。だって、ナマエさんの頬がますます赤くなっているのだから。意味を探すなと言われるほうが難しい。期待、してしまいそうだ。
「ナマエさん」
「う、うん?」
 溢れ出したこの想いは、もうボク自身にも止められそうになかった。
「テツくん……?」
 ボクは口を開くまえに、ゆっくりと深呼吸をした。この胸の高鳴りが、ナマエさんに伝わっていないといいのだけれど。
「ボクは……ナマエさんのことが好きだ。あなたとボクだけの時間が、もっと欲しい」
「えっ……て、テツくん……!?」
「ボクは、ボクの全てをあなたに見てもらいたい。あなただけに」
 仕事のことも、ポケモンのことも……そしてもちろん、テツという、ボク個人のことも。ボクの全部を、ナマエさんには知ってほしいと思う。
「ナマエさんは……ボクのこと、どう思ってるの?」
「うっ……」
 ナマエさんの顔は、まるでマトマの実みたいに真っ赤だ。頬を両手で覆った彼女は、何を思っているのだろう、黙ってうつむいている。
 そして、少しのだんまりのあと、ナマエさんは、弱々しくボクの手を握った。
「ナマエさん……」
 これは、つまり、そういうこと、と思ってもいいのだろうか。胸の高鳴りが速度を上げていくのを感じる。きっと今のボクも、ナマエさんに負けず劣らず、真っ赤なのだろう。
 桜の花びらが一枚、重なった二人の手に舞い落ちた。
「……わたしも……テツくんが、好き……」
「え……ほ、本当に?」
 こくり。ナマエさんは力なく頷いた。
「やっ……やったー!」
「わっ! ちょ、テツくん!」
「アハハ! ボク、今サイコーに幸せだよ!」
 感極まって、ボクは思わずナマエさんに抱きついた。彼女は一瞬だけ身体を強張らせたものの、抵抗することなく、戸惑ったような動きでボクの背中に腕を回した。
 離れた場所にいるシキジカのカップルも、ボクたちのように、仲睦まじく身を寄せあっている。
 まるで、今ここにある全てを、春が優しく包み込んでいるようだった。

2015-04-12 BACK