試す僕を許して

 遠征から帰還すると、主が不機嫌そうな顔をしていた。いや、もっと正確に言うと、主は僕が仲間を数振り引き連れて遠征に出発したその瞬間から、何やら穏やかではない表情をしていたような気がする。
 主がどうしてこんな顔をしているのか、まあ正直なところ、心当たりはある。だから、僕がすぐに機嫌を取ればいいだけの話なのだけれど、今はまだこの反応を楽しみたいというのが本音だった。
「今回の遠征はいかがでしたか、にっかり青江」
 いつもより数段低い声だった。それに加えて、普段は僕のことを気さくに〝青江〟と呼び、口調も軽いものなのに、今日はやたらとかしこまっている。機嫌を損ねているのは明白だ。そうとわかっているのに、僕にはそれがおかしくて、嬉しくてたまらないのだ。
「悪くなかったよ。はい、これ。報告書」
「そうですか。ご苦労さまです」
 僕の手から報告書を受け取ると、主はふいとそっぽを向いてしまった。あーあ、拗ねてる拗ねてる。可愛いなぁ。
「……まだ何か用ですか、にっかり青江」
 場に留まって立ち去ろうとしない僕に、主はこちらを向くでもなく、冷たさを感じさせる声色で突き放すように言った。
「いや、用というほどでもないのだけれど……フフ」
「それなら早く部屋に戻って休めばいいでしょう」
「ふーん? 本当に戻っていいのかい?」
 筆を握る主の手が、ほんの一瞬、動きを止める。僕はそれを見逃してなんてやらなかった。
「戻ってほしくなさそうに見えるけどねぇ」
「……別に。あなたの好きなようにしてください」
「フフ……素直じゃないなぁ」
「う、うるさい……仕事の邪魔をするなら出て行ってください」
 なるほど、随分とご立腹らしい。少し意地悪し過ぎたかもしれない。ことが大きくなる前に収拾をつけないと本当に嫌われかねないし、そろそろ謝っておくのがよさそうだ。
「ごめんごめん。ほら、こっちを向いてよ、名前ちゃん」
「うっ……今は、仕事中です……」
「政府に提出する定期報告書だろう? それなら僕も手伝うから、今はほら、仲直りさせてくれないかな」
 そこまで言うと、主――名前ちゃんは、ようやくこちらに顔を向けた。まだまだ不服そうだ。
「わたしが腹を立てている理由……わかりますか」
「ああ、なんとなくね」
「……この軟派男……浮気者……」
「おや、妬いているのかい?」
「妬いてちゃ悪いですか!?」
 名前ちゃんはこれまで抑えていた感情を爆発させたように、唐突に声を荒げた。けれど彼女の目は微かに潤んでいて、そのなんともいじらしい表情が、僕はどうしようもなく愛おしい。
「だって、あなたはわたしの刀でしょう、青江! それを遠征にかこつけて、他の時代で他の人間とあんなことやこんなことを……それも堂々と宣言までして行くなんて……! この本丸は、わたしという主は、所詮、あなたにとっては都合のいい職場と上司でしかないんでしょう!?」
 僕も大概だとは思うけれど、名前ちゃんも、なかなか際どい物言いをしている気がする。
「あなたを信じてたのに……初めてだったのに……修行の許可を出したの……。強くなったのは刀としての力だけではないのですね……。わたしの想いを弄ぶなんて……ひどいですよ、青江……」
 ついに、名前ちゃんの目からはぽろぽろと涙がこぼれ落ちてしまった。これは予想外の展開だ。まさか、僕のおふざけがこんなにも彼女の心を動揺させていたなんて。
「ごめんね。そんなつもりで言ったわけじゃなかったんだ。君の反応が可愛いから、ほんの冗談のつもりだったんだよ。心配しなくても、他の人間とどうこうなっちゃあいないよ」
 言いながら、僕は名前ちゃんのそばに寄った。そしてその柔らかい手を、僕自身の両手でしっかりと包み込んだ。
「それでも……うぅ……あんなのって……」
「もう悪ふざけはしないと約束するよ。だから、どうか笑顔を見せてくれないかい」
「……わたしを泣かせたのは、青江、あなたです。だから、わたしに笑ってほしいのなら、責任を取ってください」
 責任、か。人間はこのような場合、どうやって責任を取るのだろう。昔なら切腹という手もあるだろうが、それは僕たちが存している現代ではやり過ぎにあたるだろう。それこそ、笑わせるどころか余計に傷つけてしまう。とすると、やはり土下座だろうか。いやでも、それで名前ちゃんが笑顔になってくれるとも考え難い。
 なかなか難しい問題だ。元はと言えば自分で蒔いた種なのだけれど。
 上司……人間……可愛い……浮気……嫉妬……涙……笑顔……。
 ――そうだ、これなんてどうだろう。
「名前ちゃん、結婚しようか」
「ええ!? どうしてそうなるのですか!」
「僕ら刀剣の生まれた時代と違って、ほんの数百年前からは、人間は他者と自分だけの個人的な関係を確固たるものにするために、誓いを立てて婚姻関係を結ぶようになったんだろう? それによりお互いが幸福を感じ、笑顔になる――いつだったか乱くんに貸してもらった書に、そんな感じの記述があったのを思い出したんだ」
「そ、それは間違いではないですが……でも、付喪神と人間の婚姻なんて、そんな前代未聞なこと、できるとは思えません! まして政府が許してくれるかどうか……! それに、わたしはこの本丸にいる刀みんなの主ですし――」
「おや。自分は僕を独占するのに、僕が君を独占するのはだめなのかい?」
 僕の問いに対し、名前ちゃんは「ぐ……」と忌々しそうな表情を浮かべた。
「そっそれとこれとは別問題というか……」
「悲しいなぁ。僕は君にとって、ただの都合のいい刀でしかないんだね」
「そういうことではなくて! そもそも、現代の結婚には、両者の互いに対する愛が必要なんです! 付喪神と人間の愛はきっと形の違うもので……だから……」
「〝愛〟ねぇ。大切なひとの笑顔を見たいと願うのは、人間にとって〝愛〟足り得ないということなのかな。それとも、君との間に愛を感じていたのは、僕だけだったのか……」
「ああ、もう! だいたい、あなたはいつもそうやって話をややこしくして――」
 怒ったり泣いたり慌てたり……本当に、見ていて飽きないひとだ。名前ちゃんがこんな調子だから、僕もつい意地悪したくなってしまうのだということ、きっと本人は気がついていないのだろうなぁ。そんな鈍いところも、また可愛いのだけれど。
「青江! 聞いているのですか!」
「うんうん。斎主は石切丸くんにお願いしようか」
「青江ーっ!」
 真っ赤な顔で地団駄を踏む名前ちゃんを見つめながら、僕は笑みを深めるばかりだった。ああ、僕は今日も幸せだ。

2021-08-15 BACK