この世の中に、こんなに美しいひとが果たして他にいるだろうか。そう思ったのは、ついひと月前のことだ。
その美人がこの店に初めて足を運んだ日、わたしは商品棚の整理に励んでいた。近頃この近辺に新しく建てられたお屋敷があり、そこに誰か人が移り住んできたとかで、それまで閑古鳥の鳴いていたこの店もようやく活気づいてきたところだった。少量しか置いていなかった商品はあっという間に無くなり、棚が空いているのも見すぼらしいので、わたしが在庫の並べ替えに精を出していた時、そのひとは現れた。
作業に夢中になるあまり、来店客の気配を感じ取れなかったわたしの背中に、そのひとは声をかけた。慌てて振り返ったわたしの脳裏に真っ先に浮かんできたのが、先に思い返した、そのひとの美しさに対する賛辞だったというわけだ。
「おい、嬢ちゃん。聞いてんのか?」
事務用品売場のひと品を手に取って、不思議そうにこちらを見つめる件の――もはや常連となった――美人からかけられた声により、わたしの意識は現在へと引き戻される。そうだ、今は接客中だった。
「あ、はい。すみません、聞いてます。えーと、これはですね、ファイルといいまして……」
「ふぁいる? こんな何も書いてねー書が、いったいなんの役に立つってんだ? 紙質も珍妙だし、そもそも書き物ができんのかも謎だな……」
「それがファイルというものです。基本的な用途として、すでに内容のある紙類をまとめておくことができるので、物を書くことが多い家主さまのお役には立てるかと」
「なるほどねぇ……相変わらず、この店は妙なもんが多いな」
店内を見回しながらしみじみと言う美人は、呆れとも感心とも取れるような溜息を一つ吐くと、手にしていたファイルを棚に戻してしまった。
「とりあえず、このふぁいるとやらに関しては、主に要否を確認してみるか……。必要だったらまた来る」
「わかりました。お待ちしております」
美人は取り急ぎ必要なものだけ会計を済ませたあと、なぜかきょろきょろと周囲を見回し、さらになぜか、声を潜めて、気まずそうな様子を見せた。
「……なぁ、嬢ちゃん。こっからはオレの私用なんだが……」
「はい、なんでしょう」
「その……あんた、花見は好きか?」
「お花見、ですか? はい、好きですよ。そういえば、そろそろ桜や梅が綺麗に咲く頃ですねぇ」
そのひとはこくこくと首を数回縦に振り、「そこで、だ」と、おずおずと一切れの紙を差し出してきた。
「本丸――オレの住んでる屋敷の近くで、最近、桜が開花したってんでな、見に行こうと思ってるんだが……あんたも一緒に来ねぇか?」
「えっ!」
差し出された紙切れを確認すると、それは、この店から桜の見られる場所までを簡易的に描き記した、小さな地図だった。
「今夜は月も明るいらしい。夜桜が綺麗に見られるんだとよ」
「で、でも――」
「気が向いたらでいい」
これはいったい、どういう運の巡りだろうか。美しいひとに、美しい花を一緒に見ないかと誘われるなんて。この店に勤めてもうそれなりに長くなるけれど、こんなことは初めてだ。
「和泉守兼定」
「いず……?」
「オレの名前だ」
和泉守兼定さま……名前まで優麗だなんて、このひとはきっと、美というものに愛されて生まれてきたのに違いない。
「あー、とにかく! 今夜、オレはそこで花見をしてる。一人でだ。だから、来たかったら来い。以上!」
和泉守さまはぶっきらぼうに言い終えると、そそくさと店の出入り口に足を向けた。
「あ、あの! 行きます! 今夜!」
和泉守さまが店を出るか出ないかのところで慌てて答えを返すわたしに、和泉守さまは振り返ることなく、ひらりと片手を上げただけだった。外を流れる風が、和泉守さまの長くて美しい髪をゆったりとたなびかせる。その後ろ姿は本当に綺麗で、この瞬間だけでも、なんとかして写真に収めてしまいたかった。
「あ、それから! わたしは――」
扉が閉まる寸前、今さらながら自分の名を伝えてみたものの、それが和泉守さまの耳に届いたのか否かは、もはや本人にしかわからないことだ。
渡された紙切れを大切に握りしめるわたしの頭に響いていたのは、今夜、何を着ていけば、あの方と肩を並べることが許されるだろうか、という一抹の不安と、速度を増していく鼓動の音だけだった。
2021-03-11 BACK