ちょうど三ヶ月前のことであった。かねてから希望していた勤務先の異動申請が、ようやく受理された。故郷・フスベシティのフレンドリィショップで常勤として働いていたナマエは、その報せを受けた翌日、光の速さで荷物をまとめ上げ、ここ、セキエイ高原の大地を踏んだ。それが、ちょうど三ヶ月前のことだったのだ。
彼女がセキエイ高原を勤務先に選んだのには二つの訳があった。一つは、腕の立つトレーナーだけが集まるこの高原において、強いトレーナーはなにをどれだけ持つのか、それを知りたかったというのがある。普段はただのショップ店員だが、仕事外では彼女も立派なポケモントレーナーの一人。仕事をとおして学んだことは、必ずなにかの役に立つはずだと信じて疑わなかった。
そしてもう一つの理由。それは――。
「ナマエ、おはよう。朝早くから大変だな」
――この男である。
ナマエが出勤してからさほど時間を経ずやってきたのは、赤い髪に黒マントを羽織った青年、ワタルである。そう、ポケモンリーグ現チャンピオンである、ドラゴン使いのワタルだ。
開店準備であれこれと忙しくしていたナマエの耳にも、彼の声だけは鮮明に届いた。少しだけ速度を上げた自身の鼓動には気がつかないふりをし、ナマエは山積みの在庫からワタルの方へと視線を移動させる。
「おはよう! ワタルこそ、わたしとそんなに変わらないと思うけど」
ナマエは得意の接客スマイルを即座に浮かべると、ワタルのもとへと歩み寄った。彼女の笑顔につられ、ワタルも優しい笑みをたたえる。
「いや、俺はナマエと違って、朝から急ぎの仕事があるわけじゃないから――そうだ、たまにはなにか手伝おうか?」
「ありがとう、ワタル。でも大丈夫。今朝はあとこれだけだから」
そう言ってナマエが指したのは、先ほど彼女が向き合っていた在庫の山だった。
「それ全部、どうするんだ?」
「裏の倉庫まで運ぶの」
「一人で?」
「もちろん」
ナマエは当たり前のように答えるが、ワタルはあまり納得できていないようだった。彼の表情があまり肯定的でないのを見て、ナマエは慌ててつけ加える。
「だ、大丈夫! いつもやってることだから、もう慣れたし!」
「まったく……お前は本当に、昔からそうだよな」
ワタルは、心配を通り越し、もはや呆れている、とでも言うように息を吐いた。そんなワタルを目の前になにも言えず、ナマエはバツの悪そうな表情を浮かべるばかりだ。
「ほら、手伝うから、早く片付けてしまおう」
ナマエが口を開く前に、ワタルは箱の山へと向かっていく。
「でも……チャンピオンのワタルに、そんなことさせられないよ」
「なにを言ってるんだ、チャンピオンだろうとそうじゃなかろうと、俺たちは幼馴染じゃないか。親しい人を助けたいと思うのは間違ってるのか?」
「それは……間違ってない、と、思うけど……」
ナマエはワタルの後ろ姿を追いかけながら、もごもごと言い訳を探していた。しかし、なにを言ってもワタルの親切な正論がそれを全て跳ね返してしまう。
ワタルは山積みの箱を見下ろしつつ腰元からモンスターボールを一つ取り出すと、それを頭上へと放り投げた。そして次の瞬間、モンスターボールからは光線とともに彼の相棒・カイリューが姿を現した。
「カイリュー、手伝ってくれ」
「ち、ちょっと、ワタル! 仕事前なのに大切なポケモンまで――」
「さあさあ、手を動かさないと終わらないぞ」
ナマエの言葉を華麗に遮り、ワタルは軽々と箱を三つほど持ち上げる。バックヤードを目指し移動を開始した彼の背中に、同じく箱を抱えたカイリューが続いた。ナマエも慌ててその後を追いかける。
倉庫の中の在庫は、そのほとんどが高く積み上げられていた。おそらくカイリューの身長よりも高いだろう。窓は天井近くに設けられているが、そこから差し込んでいる日光さえも、もう少しで完全に遮断されそうな勢いだ。
「薄暗いな……。ナマエ、灯りはどこだ?」
ワタルは箱を抱えたまま辺りを見回した。
「えっと、あの棚の陰にスイッチがあるんだけど……ちょっと待ってて」
ナマエは灯りをつけるため、ワタルとカイリューを抜き先頭に出た。そして足場の障害にならないよう、持っていた箱を隅に置くと、薄暗がりの中、高い棚の陰へと姿をくらませた。
少しの間その場を動かず灯りがつくのを大人しく待っていたワタルとカイリューであったが、待てども辺りは薄暗いままだ。その上、ナマエがなにか動作をしているような気配すらない。ワタルはしびれを切らし、抱えていた箱を足元に置いた。
「ちょっとナマエの様子を見てくるよ。カイリュー、ここで待っていてくれるか?」
カイリューは主人の指示に対し肯定的な態度を示すと、自身が手にしていた荷物を床に置き、呼ばれればいつでも駆けつけられる態勢でいることを強調した。
相棒の頼もしい姿勢に、ワタルも力強く頷く。そして足元に注意を払いつつ、ナマエが消えた棚の奥を目指して歩を進めた。
「ナマエ、どうかしたのか?」
目的の棚まで辿り着くと、ワタルはおそるおそる、ナマエがいるであろう陰を覗き込んだ。そして、彼はその場で予期せぬ事態に遭遇することとなる。
「う、うう、動くなッ!」
「ワタル……!」
「ナマエ!」
なんと、黒い衣服を身に纏った男が、ナマエを背後から押さえつけているではないか。ナマエの瞳は恐怖に揺らぎ、ワタルの名を呼ぶ声は、その振動が伝わりそうなほどに、わかりやすく震えていた。
ワタルは、自身の奥底から燃え上がるような強い怒りの念を感じ、きつく、硬く、拳を作った。
「その腕を離せ……今すぐに……!」
今にも爆発しかねない強い感情を押さえつけるように、ゆっくりと、しかし地を揺るがすほどに低く深い声で、ワタルは男に言った。
今のところ、男の手に凶器のようなものは見られない。どこかに隠し持っている可能性も否定はできないが、相手が少しでも怯めば、あるいはナマエを助けだすことができるかもしれない。
倉庫の入り口方面から、カイリューの弱々しい鳴き声が聞こえた。ただ事ではない主人の様子を心配しているかのような、不安げな声色だ。
「お、オレは悪くない! ナマエさんが……全部ナマエさんが悪いんだ!」
「い、痛いっ……」
男はナマエを押さえつける腕に力を込めた。ナマエの表情が歪む。
「俺の言葉が理解できないのか! ナマエを離せ!」
「本気で好きだったのに、オレをたぶらかしやがって……許さねぇ!」
興奮しきっている男には、ワタルがなにを言ったところで、その声は届かないようだ。ついには男の腕がナマエの首に回り、もう手段を選んではいられない状況になってしまった。
「くっ……仕方ないか……カイリュー!」
ワタルが名前を呼んだだけで、待機していた相棒はすぐさま飛んできた。待っていたとばかりに主人のそばで勇み身を構えたカイリューは、続く指示を、ワタルに求められたままのタイミングで遂行した。それはまさに、阿吽の呼吸であった。
どんな技を繰り出すつもりなのか、なにかのエネルギーと見られるものを溜め始めたカイリュー。そんな、攻撃寸前の大きなドラゴンポケモンを目の前にして、男はようやく、恐怖というものを取り戻したようだ。
「そっ、そんな……卑怯だぞ、ポケモン使うなんて――」
男は、全身の力が抜けたようにナマエをだらりと解放すると、ぶつぶつと言葉を発しながらその場に倒れ込んでしまった。どうやら失神してしまったらしい。
ワタルはすぐにナマエを自身の方に引き寄せ、震える彼女を抱きしめた。
「カイリュー、もういいぞ。ありがとう」
主人たちの安全を確認したカイリューは、ふっと安心したような表情を浮かべ、それまで溜め続けていたエネルギーらしきものを解放した。カイリューの溜め込んでいたものはキラキラと舞う細かい光となり、やがて跡形もなく消えていった。
「……はは、上手くいったみたいだ」
情けない表情でその場に倒れている男を見下ろし、ワタルは愉快そうに笑みを漏らす。その笑顔は、彼にしては珍しく、少年が悪戯を成功させたときに見せるような、幼気なものだった。
「あ、ありがとう、ワタル……それからカイリューも」
「ナマエ、怪我はないか?」
「うん、とりあえず大丈夫みたい。でも……」
ワタルの腕の中から彼を見つめるナマエの声は、未だに震えていた。悲しみに溢れたその声色は、ワタルを動揺させる。
「正直、カイリューが攻撃態勢に入ったとき、ワタルはわたしのことも巻き込むつもりなのかもって、ちょっと考えちゃった……」
ナマエの瞳からは、今にも涙が溢れ出てきそうだ。
「す、すまない……俺は別に、攻撃するつもりなんてなかったんだ。カイリューの使おうとしていた技は、〝神秘の守り〟だ」
「えっ……神秘の守り?」
「ああ。少し脅かすために、まるで攻撃技かのように見せかけていただけなんだが……ナマエにまで怖い思いをさせてしまったな。本当にすまない」
ワタルは申し訳なさそうに眉を下げた。しかしそんな彼とは対象的に、ナマエの顔には明るさが戻っていく。その様子に、ワタルも安堵する。
「そう、だったんだ……よかった……」
「俺がお前を傷つけるはずないだろう。まぁ、お前が捕まっていなければ、もしかしたら破壊光線の一発や二発はお見舞いしていたかもしれないが……」
「そ、それはダメ! さすがに死んじゃうよ!」
「ははは! 冗談さ」
ようやくいつもの調子を取り戻したナマエとワタルの様子に、カイリューは嬉しそうな表情を見せていた。
事件後、男はすぐさまジョウト警察に引き渡された。警察の話によると、男が犯行に至った動機はどうやら、逆恨みらしかった。ナマエに交際を申し込んだものの、不運にもその想いが実らなかったために、彼女への愛情が憎しみに変化したということのようだ。
「あの人ね、少し前まで、うちのショップに荷物を運んでくれていた人なの」
警察に連れていかれる男の背中を見送りながら、ナマエがぽつりと漏らした。その表情は、どこか悲しそうだった。
「いい人だったんだよ。転勤したてで在庫の保管場所とか、事務手続きとかがわからないわたしにも優しく接してくれて……今日のワタルみたいに、たまに倉庫まで荷物の納入を手伝ってくれたりもして……」
「……友人、だったのか?」
「ううん……付き合ってくださいって言われたときに、お友達になれると嬉しいって返事をしたんだけど……彼にとっては……それじゃあ、ダメだった、みたい……」
再び声を震わせるナマエの姿に居ても立ってもいられなくなったワタルは、思わず、その腕を彼女へと伸ばした。ナマエは特に抵抗するわけでもなく、大人しく、ワタルの腕に身を委ねる。
「ワタル……」
「お前はなにも悪くないよ」
ナマエはワタルの優しい言葉を噛み締めた。そして少し考えた後、意を決したように、細く息を吸い込み、そしてゆっくりと吐き出した。
「……わたし、ね……、ずっと……片想い、してて……」
ワタルの胸の内で、なにかがドキリと大きく反応した。ナマエの耳に伝わる振動は、刻む間隔をどんどん狭めていく。
ワタルはなにも言わなかったが、ナマエは話を続けた。
「あ、相手の人はね、いつも、わたしの心配をしてくれて、少し年上で、大人で、かっこよくて……それで……」
「そ、それで……?」
二人の間に、期待と不安が入り混じる。
「……それで……ポケモンが、とっても強くて……」
ナマエを抱くワタルの腕に、きゅう、と力が込められた。
ワタルはもう気がついているのだろうか。ナマエの話す〝片想いの相手〟が、目の前の彼自身であることに。そして、ワタルこそが、ナマエが勤務地の異動を申請するに至った主な理由であることに。
ナマエはおそるおそる、ワタルの顔を見上げた。
そしてワタルも、腕の中のナマエを見つめていた。
「ナマエ……あまり、期待させるようなことは言わないでくれないか……」
ワタルの頬がみるみる紅潮していく。
「……やっぱり、いや……?」
ナマエの瞳が不安げに揺らぐ。
「そ、そうじゃない! 断じてそういうわけではない!」
ワタルは思わず、ガシリと勢いよくナマエの肩を掴んだ。唐突なその動きについていけず、ナマエは目を見開いている。
二人の間にしばしの沈黙が流れる。お互いを見つめ合ったまま微動だにしないその様子は、まるで、二人の世界だけ時が止まってしまったようである。とは言え、そんな世界でも、鼓動だけはどちらのものもしっかりと働いていた。
そして少しののち、先に時間の流れを取り戻したのは、ワタルであった。
「俺は……お前が好きだ」
ワタルの言葉に引かれ、ナマエの世界にも再び時が流れ始める。
「わたしも、ワタルが好き……ずっと、ずっと、昔から……!」
顔を真っ赤にさせたナマエが絞り出したような声で訴えた。
二人はそのまま、またしばらく見つめ合ったが、やがてどちらからともなく笑みを漏らした。先に言葉を発したのはナマエだ。
「……ふふっ。ワタル、カオ真っ赤だよ」
「うっ……仕方ないだろ、慣れてないんだ……そ、それに、ナマエこそ、まるでオクタンだぞ」
「えっ、ひ、ひどい! もっとこう、コイキングとか可愛いポケモンいっぱいいるのに、なんでオクタンなの!?」
「むしろなんでコイキングは良くてオクタンはダメなんだ……?」
膨れるナマエを見て、ワタルは呆れたように眉を下げる。そんな彼が気に入らないのか、ナマエはますます不機嫌な色を深め、ぷいとそっぽを向いてしまった。しかしその頬はやはり赤く染まっており、ワタルは胸をきつく締めつけられるような感覚をおぼえた。
「ナマエ、こっちを向いてくれ」
「イヤ! 恥ずかしいもん」
「まったく……ずいぶん綺麗になったけど、やっぱり変わってないところもあるんだな」
「ちょっとワタル、それどういう意味――」
ワタルの言葉につられたナマエが思わず顔の向きを変えた、その瞬間だった。後頭部に温もりを感じたのも束の間、ナマエの意識は、至近距離に見える短い睫毛の集まりを確認することしかできなくなっていた。
ナマエの視界が景色を取り戻したのは、それから数秒後のことである。今しがた自身に起こった出来事を理解し、彼女は見るからに慌て始めた。
「わ、わた、わた……ワタル……!」
「なにも言うな」
でも、と言葉を続けようとするナマエを黙らせるように、ワタルは再び彼女の後頭部に手を回した。そしてぐい、と自身の方に引き寄せ、先ほどよりも少しだけ乱暴に、二度目の口づけを落とす。
一度目よりも長いそれに、ナマエの心臓は今にも破裂してしまうのではないかと思うほど激しく高鳴っていた。
開店時間はとっくに過ぎているものの、買い物客は未だ現れそうにない。
2019-08-26 BACK