ハヤトさんは、小さいころから、キキョウシティでは評判の少年だったそうだ。ジムリーダーの一人息子で誰に対しても礼儀正しく、また正義感が強くて、若いながらも困っている人を見放さない情の厚さも持っていた。そんなハヤトさんだから、先代の後を継いでジムリーダーに就任したことを祝福しないひとは、キキョウシティには誰一人としていなかった。わたしも、もちろんその内の一人だ。
わたしよりも少しだけ年上なハヤトさんは、その昔、家が近所のわたしとよく遊んでくれたものだった。先代に似て鳥ポケモンに対し情熱的なハヤトさんは、日中に近くの草むらで羽休めをしているポッポや、夕方に茜色の空を飛んで巣に戻るヤミカラス、そして、わたしたちが寝静まったころに木の枝から夜を見守るホーホーのことなど、身近な鳥ポケモンの話をよく聞かせてくれた。鳥ポケモンについて熱く語るハヤトさんのキラキラした瞳は、わたしの胸まで熱くさせた。もっとたくさん、色んなことを教えてほしい。そんなふうに思っていた。
けれど時間の流れというものは残酷で、年月の経過とともに、わたしとハヤトさんはすっかり疎遠になってしまった。理由はもちろん、ハヤトさんのジムリーダー就任だ。一人旅が許される年齢に達した日、ジムリーダーになる準備をするため、ハヤトさんは先代から譲り受けたポケモンとともに修行の旅に出た。旅に出る前の日、もっと色んな話を聞きたかった、とぼやいたわたしに対し、ハヤトさんは言った。
〝もっと強くなって、もっと鳥ポケモンについて詳しくなったら、土産話をいっぱい抱えて帰ってくる。そのときは、ナマエ、また昔みたいにたくさん話をしよう〟
約束だ、と最後に付け足してわたしの手を握りしめたハヤトさんだったけれど、修行の旅から戻ったのち、その約束が果たされることは現在までついになかった。
仕方のないことだ。帰郷した後も、ハヤトさんは多忙を極めていたのだから。詳しいことはよくわからないけれど、ジムリーダーになるためには色々なことを勉強しなくてはいけないらしいのだ。近所に住んでいるというのに、家の周辺でハヤトさんを見かけることはほとんどなかった。
「祝賀会……?」
ハヤトさんのジムリーダー就任から少ししたころ、家に回覧板が届いた。簡素なバインダーに挟まれていたのは二枚の紙で、一枚はキキョウシティの住人名簿、そしてもう一枚は、ハヤトさんの写真がでかでかと掲載された〝祝賀会のお知らせ〟だ。
――ハヤトさん、なんだか大人っぽくなったな。髪伸びたし、目つきも少しキリッとしてる。おまけに、肩幅もなんだか広くなったような気がする。
写真とはいえ、ハヤトさんの姿をこんなにまじまじと見つめるのはかなり久しぶりのことだ。写真の中のハヤトさんは、たしかにわたしの知っているハヤトさんなのだけれど、どことなく別人のようにも思えた。確実に男性らしくなってはいるものの、全体的に華奢な印象を覚えるのは、きっとハヤトさんが母親似だからなのだろう。
それにしても、祝賀会、か。案内によると、この会の企画・主催はキキョウシティの町長さんらしかった。別紙の名簿が参加を意味する丸印で埋まっていることから、ハヤトさんの人徳がうかがえる。
昔のようにハヤトさんと話をすることは、もう叶わないかもしれない。もしかしたら、ハヤトさんはわたしのことをもう覚えていないかもしれない。けれどわたしは、せめて、ジムリーダーになったハヤトさんへお祝いの言葉を届けたい。ほんの少しでも可能性があるのなら……この機をみすみす逃す理由はない。
微かに震える手をなんとか落ち着かせながら、わたしは自分の名前を丸印でしっかりと囲った。写真の中のハヤトさんが、わたしに勇気をくれたように感じた。
――そして、当日。町長さんを含めた大人たちは、みんなお酒で気分が高揚し、宴は大盛り上がりで進行していた。町長さんの挨拶に始まり、キキョウシティのミドル世代が笑いを誘う芸でハヤトさんを鼓舞。夜が更けるころには、先代からハヤトさんへ、親子として、そして師弟として、涙が出てしまうような言葉が贈られた。大人も子どもも、キキョウシティのみんなが、ハヤトさんのジムリーダーとしての門出を全力で祝福していた。
わたしはお酒が飲めないけれど、酔っていようがいまいが、そんなことは関係ないこの温かい雰囲気には、完全に酔いしれていた。みんなと一緒に笑って、一緒に涙して、ことあるごとにサイコソーダの入ったグラスを高く掲げた。当初の目的を未だに果たせていないことを除けば、本当に素晴らしい時間を過ごせていると思う。
祝賀会の主役であるハヤトさんは、会が始まってから、もうずっと忙しそうにしている。大人たちとなにか話し込んでいたり、子どもたちの相手をしていたり――わたしのために時間を割いてもらえるようお願いしにいくことなんて、とてもできないほどだった。わたしにできることと言えば、多忙なハヤトさんから一番とおく離れたテーブルの、一番すみの席で、彼の姿をときどき確認することくらいだ。ハヤトさんがこちらに来ることはおろか、目と目が合うことすらない。その事実が、ハヤトさんの中にはもうわたしという存在なんていない、ということを告げているようで、心のどこかでそんな気はしていたのに、やっぱり寂しいと感じてしまう。そんな自分がいやだった。
時間も時間だし、楽しい会もそろそろ終了だろう。腕時計を気にしながら身支度を始めようか考えていた、そのときだった。視界の隅に人影が入り込む。はっとして横を向くと、そこにいたのは――。
「ハヤト、さん……?」
――どこか気まずそうにわたしを見下ろす、憧れのひとだった。
「やあ……その、久しぶり、ナマエ」
ハヤトさんが口にしたわたしの名前は、昔に比べるとどことなくぎこちない響きをしている。けれど、ハヤトさんがわたしのことを覚えていてくれたという、その事実は、さきほどまで感じていた寂しさや自己嫌悪の感情を、一瞬にして吹き飛ばしてくれた。
「今、ちょっといいか」
「えっ……は、はい……」
嬉しいはずなのに、この瞬間をずっと待っていたはずなのに。いざ本人を目の前にすると途端に緊張してしまうのは、どうしてなのだろう。
がやがやと騒がしい大部屋の中で、わたしとハヤトさんだけが別の世界にいるのではないかと錯覚してしまうほど、ハヤトさんの声ははっきりと聞こえた。そしてわたし自身の声も、いやに響いているような、そんな気さえした。
ハヤトさんはわたしの返事を聞き、ゆっくりと隣の座布団に腰をおろした。目線が同じくらいの高さになっただけで、ハヤトさんとの距離がそれまでよりも近くなったように感じる。それによって、自分でもわかってしまうくらい、今わたしの胸は高鳴っている。
「はは……なんだか、不思議な感じだな」
なにを話せばいいのかわからない、とでも言いたげにこぼされたハヤトさんの困り笑顔を、同じく話題を見つけられない、わたしの乾いた笑い声が受け止めた。
違う。そうじゃない。わたしには、ずっと伝えたかったことがあるんだ。もうすぐ宴会も終わりなのに、時間を無駄にするわけにはいかない。伝えなくちゃ。
「あ、あの、ハヤトさん……!」
緊張のせいで声が上擦ってしまった。突然のことに驚いたのか、ハヤトさんは少しだけ目を見開いている。
「じ、ジムリーダー就任、おめでとう、ございます……!」
つっかえながらもなんとか絞り出した言葉が、弱々しく空気を震わせる。次の瞬間、ハヤトさんは数回ぱちくりと目を瞬かせ、ふっと力が抜けたように口元を緩めた。その微笑につられてか、なぜかわたしまで、身体に巻き付いていた糸がするするとほどけていくような感覚をおぼえた。
「ああ、ありがとう、ナマエ。でも、そんなふうに丁寧な言葉なんか使わないでくれないか」
「で、でも、ハヤトさんはもうジムリ――」
「そんなこと、関係ない」
はっきりとした口調で、ハヤトさんはわたしの言葉を遮った。その瞳がゆらゆらと揺れているように見えるのは、きっと都合のいい勘違いだろう。
「ジムリーダーになってもならなくても、おれはおれだよ。ナマエが昔から知っている、近所のハヤト。だから、そんな、他人行儀な振る舞いはよしてほしい」
切々と言葉を繋ぐハヤトさんが、わたしをじっと見つめる。ずるい。わたしには、ハヤトさんの言うことを拒むなんて、できないのに。
なにも言えず、わたしはただ首を縦に振った。
「……そ、そうだ、ナマエ。せっかくだから、なにか飲みものを注ごうか。なにがいい?」
「え? あ、えっと……サイコソーダ……」
空になったわたしのグラスを手に取ると、ハヤトさんは慣れた手つきでサイコソーダを注いでくれた。
「はい、どうぞ」
「あ、ありがとう……」
ビンの中に半分ほど余ったサイコソーダを今度は自分のグラスに注ぎ、ハヤトさんが口を開く。
「乾杯」
ハヤトさんの顔に浮かべられた微笑は、わたしの心臓をきゅうっと握りしめた。夢みたいだ。ハヤトさんが、わたしに笑いかけているなんて。
「かん、ぱい……」
ちん、と小さな音を立ててグラス同士をぶつけると、中のサイコソーダがゆらりと揺れた。サイコソーダにアルコールなんて入っていないけれど、なぜだろう。隣にハヤトさんがいるというだけで、なんだか身体が熱くなって、頭がぼーっとして、そして胸がどきどきする。わたしはいったい、なにに酔っているというのだろう。
「それにしても……」
グラスを置いたハヤトさんの瞳が、わたしの姿を捉える。
「きれいになったな、ナマエ」
ずるい、ずるい。そんな言葉をかけられて、そんな目で見つめられて……紅潮した頬を見て、勘違いするなというほうが無理な話だ。お祝いの言葉を伝えられるだけでいいと思っていたのに。それなのに。
「……ハヤトさんも、すごく、かっこよくなった、よ……」
今になって自分の気持ちに気づいてしまったから、わたしはさらに求めてしまう。ハヤトさんの言葉が欲しい。笑顔が見たい。二人の時間を、もっと、持ちたい。そう思うのがわがままだって、知っているはずなのに。
「あの、ね。わたし、ハヤトさんに会えなくて、ずっと……ずっと、寂しかった」
酔っ払いの言葉だと思って聞き流してもらえたら、どんなに幸いだろう。けれどサイコソーダじゃ、酔っているなんて言い訳は通るはずがない。それでももう、溢れ出した言葉を止めることは、自分ではできそうもなかった。
「今日だって、わたしのこと覚えてないかもしれないって、本当は怖くて……」
なにを言うでもなく、ハヤトさんは、静かにわたしの言葉を聞いている。
「でも、ハヤトさんがわたしのところに来てくれて、すごく嬉しくて……」
自分でもなにを伝えたいのかすらよくわからない。けれど、これが全て自分の本心だということ、それだけは理解できた。
「わたし、ハヤトさんのことこんなに大好きだったなんて、今になるまで知らなかった……」
「ナマエ……」
不意にハヤトさんの手が伸びてきて、わたしの頬を包んだ。さきほどまでグラスを握っていたからか、その手はひんやりと冷たくて、けれどその冷たさが心地よかった。
「おれだって、ずっと会いたかったんだからな」
真剣な、どこか切なさを孕んだハヤトさんの視線と、わたしの視線がぶつかる。ああ、ハヤトさんの瞳、本当にきれいだ。
「きみに教えてあげたいことが、たくさんあるんだ」
「うん……」
「見せたいものも、伝えたいことも……たくさん、たくさん、ある。だから――」
ハヤトさんの目が細められて、その柔らかい視線がわたしの心を優しく突き抜けた。
「昔のように、きみと一緒にいたい」
嬉しさで胸が苦しくて、どんな声で、どんな言葉を返したらいいのかわからなかった。必死に頷くわたしの頬から手を離したハヤトさんは、もう一度爽やかな笑顔を浮かべ、席を立って部屋の中央に移動した。ハヤトさんのその行動は、宴の終わりを告げていた。
祝賀会を開いてもらったことに対する感謝の言葉から始まった、ハヤトさんの挨拶。ジムリーダーとしての抱負を語るハヤトさんの目は、キラキラと輝いている。その瞳は、わたしが昔からよく知っている、大好きなハヤトさんの瞳だった。
2018-10-05 BACK