恋人と別れた。まだ春の兆しが見えない、寒い冬の日のことだ。どちらから、なんて、そんな一方的な別れ方ではなかった。二人がこれまで何度もそうしてきたように、よく話し合い、よく考えた上での、二人の決断だった。なんてことない、この世にありふれた、小さな別れ。納得してお互いに背を向け合ったわたしたちの間に、涙なんてものは存在しなかった。
彼との五年が残る街を出て、わたしは故郷へ戻った。仕事は辞めた。もともと数年働いたら地元に戻って生活をするつもりだったので、特に未練は感じない。そもそも彼と出会ったこと自体が予期せぬ展開だったのだ。これは、ただの軌道修正に過ぎない。
「驚いたよ。まさか、ナマエがあの人と別れるなんてな」
一人用のカウチでホットコーヒーに口をつけながら、昔馴染みのハヤトが言った。彼は今、わたしの故郷でもあるここ、キキョウシティのジムリーダーとして忙しくしている。わたしが帰郷すると連絡したところ、わざわざジムを閉めていとまを取ってくれたようだった。わたしの実家の、わたしの部屋で、こうして二人揃ってゆっくりするのは何年ぶりだろう。
「おれはてっきり、そのまま結婚するんだと思ってた」
ぽそりと呟かれたハヤトの言葉にどことなく寂しさが感じられたのは、気のせいだろうか。また一口コーヒーを口にするハヤトのその様子を、わたしはベッドの上から静かに眺めていた。
ハヤトが驚くのも頷ける。わたしもそう思っていたのだ。別れた彼とわたしは、その瞬間まではただの仲良しカップルだったのだから。否、別れの瞬間も、全てが終わったあとも、二人の仲に変化があったわけではない。わたしと彼はそれまでどおりお互いを気遣っていたし、大切にしていた。お互いを尊重し合って、だからこそ、お互いの前から去ったのだった。出会い付き合い別れた。この一連の出来事は、彼とわたしの人生における小さなイベントごとでしかなかった。その小さな出来事に、五年もの歳月を要してしまったけれど。
「ハヤト、わたしね、別れられてすっきりしてるよ」
ハヤトは、ふぅん、とどこか納得いっていないような曖昧な相槌を打った。
「長い間わたしと一緒にいてくれた彼には感謝してるし、わたし自身も成長できたから、後悔とか、未練とか、そういうものはないんだ」
そう、後悔も未練もない。五年の間、わたしは充実した日々を送っていたのだ。
元職場の職員出入口でうろうろしていた男に声をかけた。その人はこちらに名刺を差し出しながら、自分は取引先の営業社員で、その日わたしの元上司と面会の約束をしていたのだと言った。しかし職場にはわたし以外まだ誰も来ておらず、応答がなくて困っていたのだと。あの時も外は寒くて、鼻を真っ赤にしてあたふたするその人物を、わたしは放っておけなかった。そこで、とりあえずその人を簡素な客間へと通し、元上司が出勤するまでの間、お茶を出したり他愛もない話をしたりして、短い時間を共にした。それが彼だった。
「今思えば、ただの怪しい人だったのに」
当時のことを思い出して、ついつい笑みがこぼれる。ぽつりぽつりと彼のいた日々を語るわたしに、ハヤトは黙って耳を傾けていた。
彼と出会ったあの日以降も、彼は何度か営業でわたしの元職場を訪れた。そのたびに、よかったら連絡先を教えてくれだの、食事でもしないかだの、休みの日に出かけないかだの、しつこいくらい積極的にわたしとの接点を持とうとする彼を、変な人だと思った。職場内でもわたしへの好意を包み隠さず接してくるので、同僚にまで〝ナマエのことが大好きな営業マン〟と言われからかわれる始末だ。最初はそれを少し迷惑に感じていたものの、どんなに冷たくあしらっても決して態度を改めないその営業マンに、いつしかわたしも惹かれていった。彼が来ない日は一日がやけに静かで長く感じられたり、来ても忙しそうにしているときは、なんだか彼を遠くに感じて少し寂しいと思ったりもした。
そんな日々を経て少ししたころ、仕事がなかなか上手くいかないことが続いて、わたしは気落ちしていた。そんな折に彼から何度目になるかわからない食事の誘いを受け、了承したのだ。
「ハヤト、覚えてる? わたしが〝恋人できた〟って電話した日のこと」
「……ああ、もちろん、覚えてるよ」
ハヤトはそう言って、コーヒーカップを見つめた。伏せられたその目がなにを語っているのか、わたしにはわからない。
「あの時のナマエの声、今までに聞いたことがないくらい、幸せそうだった」
ハヤトの言葉どおり、わたしはあのとき幸せの絶頂にいた。彼の存在がわたしの中で大きくなっていくのを実感していたところで、彼から真剣交際の申し出を受けたのだ。彼はわたしに言った。自分だけはいつでもわたしの味方でいる、どんなわたしでも愛せる自信がある、と。普段は落ち着いてにこにこと営業スマイルを振り撒いている彼が、出会ったあの日のようにあたふたとしながら自分の気持ちをわたしにぶつけてきたその様子は、なんだか滑稽だった。けれど、彼のその真剣な告白がわたしの胸を打ったのもまた、事実だった。あの瞬間は仕事の悩みなんてもうどこかへいっていて、頭で考えるよりも早く、よろしくお願いします、と彼に言葉を返していた。ただただ嬉しかった。素直な気持ちを一切隠さない彼のひたむきな温かさに身体も心も包まれた心地がして、怖いくらいに幸せだったのだ。
「素敵なひとだったよ。優しくて、いつでもわたしのこと考えてくれて、でもきちんと叱ってくれることもあって」
彼はいつでも真っ直ぐにわたしと向き合ってくれた。わたしが喜んでいるときは一緒になってはしゃいでくれたし、わたしが悲しんだり落ち込んだりしているときはなにも言わずに寄り添ってくれた。いつも話を聞いてくれて、いつもそばにいてくれて、いつも笑ってくれていた。
「本当に、大切な存在だった。でもね」
彼とわたしは、恋人であり、同時に親友でもあった。お互いがお互いの一番の理解者。わたしたちのそんな関係を羨ましいという人もいた。けれどだからこそ、わたしたちは気づいてしまったのだ。あの居心地のいい関係は、もうその役目を終えたのだと。
「気がついたら、彼との未来が見えなくなってたんだ」
夢見ていた結婚も、家庭を築くことも、いつしか見えなくなっていた。いや、そんな未来は最初から見えていなかったようにも思える。それでもわたしたちが惹かれ合ったのは、きっと二人にとって、人間的に成長するためにはお互いが不可欠な要素だったから、なのかもしれない。実際、わたしも彼も、お互いから学んだことは多い。一人の相手と長い時間を共にしたことで、わたしたちは確実に成長したのだ。
「わたしも彼も、一緒に過ごした部屋を出るまで、笑ってて、最後まで、幸せ、で……」
どうしてだろう。言葉が喉に詰まって上手く出てこない。先ほどまではなんでもなかったのに。胸が震える。視界がぼやける。なんだろう、このすかすかな感覚。
思わず顔を下に向けると、生温かいしずくが一滴、ぼたりとわたしの目からこぼれ落ちていった。
「……頑張ったな」
ぎし、とベッドのきしむ音がした。それと同時に身体が少し横に傾いたのは、いつの間に移動したのか、ハヤトがわたしの隣に腰をかけたからだ。ハヤトは昔に比べすっかり大きくなったその手でわたしの肩を抱くと、そのままゆっくり、ぎこちない動作で自分の方へと引き寄せた。
「ナマエが幸せだったって言えるなら、それでいい」
ハヤトの温かさとあの人の温もりが、わたしの中で重なる。もう取り戻せない、あの優しい温もり。きっとこれが、〝恋しい〟という気持ちなのだろう。たとえ最終的に残されたのがただの情でしかなくても、そこにはたしかに愛があったのだ。
「しばらく、は……思い、出しちゃう、かも……」
微かに震え始めた頬を落ち着かせるように、わたしは唇を噛み締めた。
未練はない。後悔もない。けれど、当たり前だと思っていたものがなくなってしまったことで生まれたこのぽっかりと大きな穴は、そう簡単に埋められそうにはなかった。
「あの人がしたようにナマエを支えることは、おれにはできないかもしれない。でも、こうやって隣にいることはできる」
顔を下に向けたまま、わたしはハヤトの言葉に耳を傾けた。聞き慣れたはずの声はいつもの凛としたものではなく、どこか柔らかい響きをしている。優しくゆるやかに、わたしの胸に広がっていく。
「ナマエが寂しくないように、いつ泣きたくなってもいいように、おれがそばにいる。だから、いつでもおれを頼ってくれよ。おれは――」
肩に添えられたハヤトの手に、きゅっと力が込められるのを感じた。
「ナマエのこと、ずっと待ってるから。今までも、これからも」
ふわりと羽のような手つきでわたしの髪を撫でるハヤトの胸に顔を埋めると、とくとくと優しい心音が聞こえた。
彼を忘れることは、簡単ではないかもしれない。長い年月を共にした大切な存在だったから。けれど、もう少し感傷に浸ったら、ちゃんと顔を上げよう。そのとき見える景色が少しでも変わっていれば、二人の別れにはきちんと意味があったということなのだろう。
温かい胸に耳を当てながら、わたしは、自分の中にじわじわと浸透してくるなにかを感じていた。
2018-03-05 BACK