水曜日、午後三時。
太陽がさんさんと輝く冬空を見上げていた、おれの背中に、声がかけられた。
「やあ、ハヤトくん! いつもの!」
念のため言っておくが、ここはバーや定食屋ではない。ポケモンジムだ。とはいえ、おれの背中に言葉をぶつけたそのひとが、このジムの常連であることに間違いはない。他の利用者に比べ、彼女にとってのポケモンジムは、ずいぶんと気軽に利用できる施設のようなのだ。
おれはその常連さんを振り返った。彼女――ナマエさんは、いつもどおり得意げな笑みをたたえて、いつもの場所に立っている。このひとのこの姿を見るのは、もう何回目になるかわからない。
「ほんと、懲りないひとですね」
溜め息混じりに言うと、ナマエさんは、空の太陽にも負けないくらい明るい笑顔を浮かべた。いや、きっと彼女の顔を照らす太陽光が、その笑顔を明るく見せているだけのことだろう。まぁ、そんなことはどちらでもいいのだけれど。
「まぁね! でも、ハヤトくんだって、そう言うわりには、なんだかんだで毎週わたしの相手してくれてるじゃん」
それがジムリーダーとしての務めだからです――と、言いかけたけれど、その言葉もこれが初めてではないのを思い出して、静かに呑み込んでおいた。その代わりに、溜め息を一つ。そんなおれに気がついているのか、いないのか、ナマエさんはいつものように声を張り上げて、お決まりのセリフを口にした。
「わたしは今日こそ勝つよ! そしてハヤトくんとデートする!」
この言葉、さすがのおれも最初こそ動揺していたが、今となってはもはや聞き慣れた言葉だ。
なぜなのか、彼女が手に入れたいものは、ジムバッジではなく、おれとのデートらしい。理由はわからない。ナマエさんが初めてこのジムに挑戦した日、つまり、彼女がおれに負けた日、彼女は言ったのだった。〝自分が勝ったらデートしてくれ〟と。それから毎週、水曜日の午後三時を回ったころに、彼女はやってくる。そして負けて帰る。なぜ彼女がこんなにまでおれとのデートに執着するのか、とにかく疑問だった。
互いにポケモンを出しながら、おれは直感した。今日も自分が勝利することを。
彼女のポケモンたちは、いつもと同じ技を使用した。毎週同じ相手、同じポケモン、極めつけに、同じ技を使用されているのだ。さすがに手の内を読めないほうがおかしいだろう。
ジムリーダーだからといって、手加減をすることはおれの方針に反するし、おれも普段どおり、全力で相手をする。そうして案の定、勝負はおれの白星に終わった。
「また負けちゃったかぁ」
へらへら笑う彼女は、果たして本当に残念だと思っているのだろうか。そろそろおれも、ジムリーダーとして、彼女に何か提言しなければいけない気がする。負けたいというわけではないけれど、トレーナーたちを導くのも、ジムリーダーとしての大切な務めだからだ。
「ナマエさん、本気でおれに勝とうと思ってるんですか?」
「もちろん! 次こそは勝って、ハヤトくんと――」
またこれだ。彼女の常套句。
「いい加減にしてください! あなたにとってのポケモンやジムって、いったいなんなんですか!」
いつもと変わらないことを口にしたナマエさんに腹が立って、おれは思わず声を荒げてしまった。はっとして彼女に視線を向けると、彼女は驚いたような、状況を把握しきれていないような、そんな表情で呆然とおれを見ている。
ここからどんな声色で、どう声をかければいいのか、見当もつかず拳を握るおれの耳に、ナマエさんの声が届いた。
「えっと……ご、ごめんね。今までハヤトくんが何も言わなかったから、わたし、甘えちゃってた……」
彼女はおれの方を向いたまま、じわじわと後退していった。そんなナマエさんの動きに合わせるかのように、ジム内に差し込んでいた太陽の光が、小さくなっていく。
ついにナマエさんがおれに背を向けたとき、ジムの中はもうすっかり薄暗くなっていて、おれはただ、走り去る彼女の背中を見送ることしかできなかった。
ジムの天窓を叩く音が聴こえる。見上げると、先ほどまでそこにあったはずの太陽は姿を消していて、代わりに見えたのは、鉛色の空、そして、ぼたぼたと天窓を打ちつける雨粒だった。
ナマエさんがおれに背を向けて走り去ったあの日から、もう一週間が経つ。ポケギアの時計が午後三時を回っても、いつもの声は聞こえなかった。その次の週も、そのまた次の週も彼女は現れなくて、あれ以来、水曜日の午後三時に誰かと勝負をすることはなくなった。
時が経つにつれて大きくなるのは、えも言われぬ罪悪感だった。
ナマエさんがしたことに対するおれの考えは、変わらない。しかし、もっと他の言い方ができたのではないかと、今になって思う。あのとき、おれは確実に、自身の感情に任せて言葉を選んでいた。声色も、声量も、何もかもを自分の小さな怒りに乗せて、そのまま彼女にぶつけてしまったのだ。
――謝りたい。そして、彼女とちゃんと話をしたい。おれはただ、ジムリーダーとして、トレーナーとして、ナマエさんと真摯な勝負がしたかっただけなのだ。あのとき、そう伝えられなかった自分が情けない。自分の感情を抑えられないなんて、おれもまだまだ未熟ということなのだろう。
そんなことを悶々と考えながら、ついに二ヶ月が経とうとしていた。依然として、彼女はジムに姿を現さない。おれもそろそろ気持ちを切り替えなければいけない、そう思い始めていた。
その日、私用のため、おれはジムを閉めて外出していた。
午後には用事を済ませてしまい、久々に家でゆっくりしようかと考えながら、自宅近くの空を飛んでいたときだった。上空からナマエさんの姿を見つけたのだ。
「ナマエさん!」
考えるより早く、おれは彼女に声をかけていた。どうしてここにいるのかなんて、そんなことは、今はどうでもよかった。
ナマエさんは、遠目からでもわかるくらいに、びくりと身体を大きく反応させて、辺りをきょろきょろと見回している。
おれがゆっくり降下していくと、羽音に気がついたのか、彼女はやっとこちらを見上げた。驚きに目を見開いて、彼女はおれの名前を呼んだ。
「は、ハヤトくん……!」
ピジョットの背から飛び降り、おれはナマエさんに向き直る。ナマエさんは何か言いたげな表情をしていたけれど、少しして、静かにうつむいてしまった。
「えっと……元気、でしたか」
恐るおそる、おれはナマエさんに声をかけた。
話しにくい、という彼女の気持ちはよくわかる。おれだって、さすがに少し気まずいから。
しかし、自分から彼女を呼び止めてしまった以上、この機会を生かすも殺すも、おれ次第なのだ。
「……う、うん、元気だよ! ハヤトくんは? ていうか、今日、ジムはどうしたの?」
ナマエさんは下げていた顔を上げ、こちらに笑顔を向けながら、おれの問いに答えた。いつもの調子で接しているつもりなのだろうが、今の彼女からはぎこちなさが滲み出ている。彼女のその様子は、おれの中の罪悪感を大きくした。
「ちょっと用事があって出てたので、今日、ジムは休みです」
「そうなんだ」
ナマエさんの相槌のあと、おれたちのあいだには再び沈黙が訪れた。
違う。おれは、こんな話をするために彼女を呼び止めたわけではない。声をかけた瞬間は、たしかに何も考えていなかったけれど、あれは単に、おれの意思より早く身体が動いただけの話だ。
ゆっくり深呼吸をして、おれは、「ナマエさん」と彼女の名を呼んだ。その瞬間、彼女の瞳が不安げに揺れたのがわかった。
「その……あのとき、厳しい言い方をしてしまったこと、謝らせてください。悪かったと思っています」
「ハヤトくん……」
不安げだったナマエさんの表情が、少しだけ和らいだ気がした。
「おれは、もっと別の戦い方をするあなたが見たかったんです。こんなこと言うと、へんかもしれませんが……おれ、負けたくないと思う反面、あなたに勝ってほしいとも思っていました」
おれの言葉を受けて、ナマエさんははっと息を呑んだ。彼女は、「そうだったんだ」と消え入りそうな小声で呟くと、続けて、「あのね」と言葉を紡いだ。
「わたしもずっと、ハヤトくんに謝りたかった。それから、お礼を言いたかった」
「……お礼?」
「うん。ハヤトくんに叱ってもらった日、目が覚めた感じがしたんだ。それまでずっと、ハヤトくんに近づきたい一心で、何度も挑戦すれば、いつかは勝てるときがくるかもしれないと思ってた。でもそれって、ジムリーダーに対してすごく失礼なことだって気づいた……ごめんなさい」
言葉を選ぶように、ゆっくりと、けれどしっかりとした口調で、彼女は続ける。いつもおれに見せていた軽い態度とは打って変わった、彼女の真面目な様子に、おれは不覚にも少し動揺した。こんな真摯な彼女を見るのは、初めてだったからだ。
「ハヤトくんに言われて、今のままじゃ絶対に勝てるはずがないって、わかったの。わたしはポケモンのことや勝負のことを、全く理解していなかったから。それを教えてくれたことに関して、感謝の気持ちも伝えたかった」
褒められた形ではなかったものの、自分の言葉が彼女にちゃんと伝わっていたことがわかって、おれは素直に嬉しいと感じた。しかし同時に、胸に残る疑問の存在も否定はできない。
「わかってくれて嬉しいです。でも、どうして……その、おれと、デートがしたいんですか」
ナマエさんは、ぱちくりと目を瞬かせて、それから笑顔を浮かべた。その笑顔は、いつもの得意げな笑みのようにも見えるけれど、同時に、今の彼女の真摯な思いを、そのまま表情に出しているようにも見える。
「そんなの、ハヤトくんのことが好きだからに決まってるじゃん」
どくんと胸が高鳴って、心臓を締めつけられるような感覚が、おれを襲った。
こんなこと、初めて言われた。どうして、ナマエさんは、顔色一つ変えずに、しかもおれの目を真っ直ぐに見て、こんなことを言えるのだろう。ジム戦のときだってそうだ。彼女は、さもそれが当たり前であるかのように、〝おれとデートしたい〟と一直線に気持ちをぶつけてくる。初めて会ったときからだった。
「どうして、おれなんですか」
「……ハヤトくんは気づいてなかったかもしれないけど、わたしたち、実はすごく近所に住んでるんだよ」
彼女は、「わたしの家は、そこの角を曲がったところにあるの」と言って、おれもよく見慣れた曲がり角を指差した。なるほど、ナマエさんがここにいた理由も頷ける。
それにしたって、近所に住んでいるのに、なぜおれはナマエさんがジムに来るまで、彼女のことを知らなかったのだろう。
「ハヤトくん、どこかに行くときって、必ずピジョットと空を飛んでいくでしょ? わたしが初めてその姿を見たとき、あまりにもキレイで、かっこよくって、一目惚れしちゃったんだ」
「ひ、一目惚れって……」
ナマエさんは偶然にも、おれの疑問に対する答えをくれた。
たしかに、おれは普段、空を飛んで移動することが多いが、まさか誰かにその姿を見られていたなんて、微塵にも想像していなかった。
ナマエさんは、ずっとおれに憧れていたということ、ポケモンを育てようと思った理由が、おれに近づくためであることなど、彼女がおれにジム戦を挑むに至った経緯を、ゆっくりと語って聞かせてくれた。
「なんとかして、わたしのことを見てくれないかなって思ってたの。でもわたし、こういうとき、どうすればいいのかわからなくて。デートに誘うくらいしか、思い浮かばなかったんだ」
自嘲気味に「年上なのに情けないね」と呟いて、苦笑いをこぼしたナマエさんの姿は、おれに言い表しようのない不思議な感情を植えつけた。
「なんにせよ、そのためにポケモンやジムを利用するのはよくなかったなって、反省してるよ。いいこともあったけどね」
「いいこと?」
ジムに来ても負けて帰るだけの彼女に、何かいいことなんてあっただろうか。記憶を辿ってみても、おれの中のナマエさんは、ずっとゆるい笑顔を浮かべているだけで、何が彼女にとっていいことなのか、はたまた悪いことなのかは、皆目検討もつかない。
疑問符で溢れたおれの表情を読み取ったように、ナマエさんは、いつものゆるい笑顔を浮かべてみせた。
彼女はいろんな笑顔を持っているひとだ。彼女の言葉に耳を傾けながら、おれはそんなことを考えていた。
「わたし、ハヤトくんに負けるたびに、もっとキミのことが好きになったんだよ」
彼女の言葉は真っ直ぐすぎて、どう受け止めるのが正解なのか、おれにはわからない。
「レベルの違いが歴然なのに、キミは手加減なんてしないし、何度も無謀な勝負を挑むわたしを、無視することもない。責任感が強くて、誠実で……ポケモントレーナーとしての誇りを、本当に大切にしているんだなって、負けるたびに感じたの」
おれは知らなかった。彼女がまさか、あの敗北でそんなことを感じていたなんて。どうりで、負けても悔しそうにしていなかったわけだ。
ナマエさんは続ける。
「そんなキミをもっと好きになって、もっと近づきたいって思った。だからね、ハヤトくんがわたしを叱ってくれたあの日から、この二ヶ月、修行してみたの」
彼女は最後に、「この気持ちが本物だって、伝えたい」と付け加えて、憂いを含んだような表情を浮かべた。その表情があまりにも儚げで、おれの目の前に立つナマエさんが、今までの彼女でないことは明らかだった。
しかし、そんなことは、この際もうどうでもよかった。おれの中に芽生えた何かが、そんな彼女を受け入れたいと訴えているのだ。
「……それなら、ナマエさん。おれに見せてください。あなたの修行の成果を」
おれの言葉を受けた彼女の表情が、みるみる明るくなっていくのがわかる。
「あなたが勝ったら、おれはあなたの気持ちに応えます。でも、もしおれが勝ったら――」
不意打ちでナマエさんの腕を引くと、油断していたのか、彼女はいとも簡単に、おれの腕に倒れ込んできた。
困惑した様子の声が聞こえてくる。いつもは得意げなナマエさんの動揺した様子が、なんとなくおもしろくて、おれは彼女を包む腕に少しだけ力を込めた。
「あなたのこと、好きになってもいいですか?」
ぱっと彼女を腕から解放すると、そこには、今まで見たこともないくらいに顔を赤くしたナマエさんの姿があった。
「そ、それでいいの……?」
「もちろん。おれは負けるつもりなんてありませんから」
「そ、そうじゃなくて!」
まだ何か言おうとするナマエさんを無視して、おれは再びピジョットの背に身を預けた。
ふとポケギアを確認すると、時計は、ちょうどいつもの時間を回ったところだった。
「さあ、そうと決まればジムへ行きましょう。『善は急げ』といいますからね」
いまだ赤みの引かない顔をしたナマエさんに手を差し出すと、彼女は少しためらいがちに、おれの手をそっと握った。
2018-02-05 BACK