ついていない。ついていないにもほどがある。
先ほど、やっとの思いでジョウトの地を踏んだばかりだというのに、わたしはまるで歓迎されていないようだ。辺りはもう暗く、人ひとり見当たらないうえに、激しい雨と風がわたしの身体を打ちつける。カバンに忍ばせていた折り畳み傘は、この強い風に抗えきれず、ついさっき損壊した。レインコートは持っていない。ついでに言うと地図もない。
右も左もわからず雨のなか立ち尽くすわたしは、新天地にて、さっそく心が折れそうになっていた。
わたしは今、どこにいるのだろう。目に映る景色は、もうずっと、草むらと道路だけだ。歩いていればトレーナーか誰かに出会うだろうと思っていたけれど、時間が時間なうえに天気がこれだからか、ジョウト地方に入ってから、誰にも会っていない。食べるものもないし、冗談は抜きにして、このまま野垂れ死んでしまう可能性だって否定できない状況だ。
「チルタリス、ちょっと手伝って」
空から見下ろせば、建物や街が見えるかもしれない。そう思ったわたしは、長年のパートナーであるチルタリスをボールから出した。彼女は澄んだ声で一鳴きして、わたしに背を向ける。迷いなくその背に飛び乗ると、ふわふわもこもこの羽毛が、冷え切った身体を包み込んでくれた。死ぬときはこの羽毛に包まれて――なんてことを考え始めたわたしは、きっと相当疲れているのだろう。
わたしを背に乗せたチルタリスが、ゆっくりと空へ向かい上昇していく。それに伴って辺りを見渡してみるも、近くに建物らしきものは見当たらない。そのまま上空を進んでみる。
すると、かなり遠くではあるものの、ポケモンセンターと思しき屋根が見えた。雨に阻まれながらも希望の光を見つけたわたしは、急いでその方向へ向かうようチルタリスに指示を出す。
しかし、激しい風雨は、そう簡単にわたしたちを解放してくれないようだった。安定した姿勢を取れずにぐらぐらと身を揺らすチルタリス。その背に必死で掴まる無力なわたし。
そのときだった。
「あ――!」
目の前を強い光が駆け抜けたかと思うと、次の瞬間、わたしは空中にいた。先ほどまでの温もりはなくなっていて、弱った獲物に群がるかのごとく、雨風が一瞬でわたしの身体を取り囲む。
慌てた様子でこちらに向かい急下降してくるチルタリスの姿が、足の先に見えた。
――ああ、ここでわたしの旅は終わるのか。ジョウト地方はどうやら、わたしというトレーナーをひどく憎んでいるらしい。心当たりは皆無だけれど、きっと無意識のうちにジョウト地方に対して何かしてしまったのだろう。こんなことになるのなら、カントー地方の旅を終えたあとに、一度だけでも実家に帰っておくべきだった。後悔しても、もう遅いか……。
記憶の欠片たちが次々と脳裏に浮かんでは消えていく。どうせ終わってしまうのなら、輝く思い出に浸りながら、この世に感謝と別れを告げよう。わたしは潔く瞼を閉じた。
もうすぐ地面に到達するだろう。痛いのは一瞬だけでありますように。死にきれずに痛みで苦しむほうがいやだから――。
と、死を覚悟してから気がつく。先ほどまでに比べて、不思議と身体が温かい。お迎えがきたということなのだろうか。それにしては、相変わらず雨と風を感じるけれど。
「大丈夫か!?」
「えっ――」
知らない声に驚いて目を開けると、青い髪の少年がわたしを見下ろしていた。年のころはわたしと同じくらいか、少し下にも見える。
青い髪の少年は、わたしが意識を失っていなかったことに安堵したのか、「よかった」と呟いて、自分の胸にわたしの頭を引き寄せた。彼の胸は雨のせいか湿っていて、けれどもじんわりと温かい。彼はさらに、外套を脱ぐと、それをわたしの頭に被せ、片腕で包み込むようにわたしの肩を抱いた。その腕は少々華奢だけれど、男の子のそれだった。
雨粒が絶えず彼の腕を濡らし続けるのを、わたしはぼんやりと見つめていた。
この少年は、どこの誰なのだろう。
彼の心音に耳を傾けるわたしの頭上では、わたしたちをその背に乗せている生き物に対して、少年が降下の指示を出していた。目の前に彼がいるので何も見えていなかったけれど、彼の言葉を聞くところ、この生き物はピジョットらしい。
少しだけ頭を動かしてみる。なるほど、たしかにピジョットだ。少年の腕越しに見えた、暴風に逆らうようにしてはためくその翼は、紛れもなくピジョットのものだった。
「おれに掴まって」
わたしは言われるまま、少年の背中に腕を回した。彼はそのまま姿勢を低くし、ピジョットと自身のあいだにわたしを挟むような体勢を取った。彼の髪から滴った雨のしずくたちが、わたしの首元をくすぐった。
わたしたちを乗せたピジョットのあとから、チルタリスが続いて降下してくるのが見える。相変わらず飛びにくそうではあるけれど、彼女が無事でよかった。
わたしと少年が地に降り立つと、彼女はすぐにわたしの身体を翼で包み込んだ。やっぱりこの羽毛の心地よさに敵うものはない。雨に濡れて少しだけごわごわしてしまっているけれど、それでも彼女の羽毛はわたしを安心させた。
「ちゃんと掴まってなくてごめんね、チルタリス」
チルタリスは弱々しい鳴き声をあげた。きっと彼女も疲れきっているに違いない。名残惜しいけれど、ひとまずは彼女を休ませてあげなければ。わたしはチルタリスをボールに戻し、青い髪の少年に向き直った。
「あの……助けてくれて、どうもありがとう」
少年は雨に濡れた前髪を掻き上げながら、「間に合ってよかったよ」と、優しい笑みを浮かべた。彼は少し中性的ではあるけれど、凛々しい顔つきをしている。
「どこかに向かう途中だったのか?」
少年のその問いは、彼の顔をまじまじと見つめていたわたしに、大切なことを思い出させた。そうだ、今のわたしには、助けが必要なのだ。
「実は……どこへ向かえばいいのかわからなくて……」
わたしは少年に、旅をしていること、ジョウト地方にはちょうど到着したばかりであることなど、自分の状況を大まかに説明した。少年はわたしの話を聞き終え、「なるほど」と頷く。
「それなら、ここから一番近い街まで、おれが連れていってあげるよ。きみのチルタリスはだいぶ疲れていたようだし、おれも同じ方向に行くから」
願ってもない申し出だった。知らない人ではあるけれど、先ほど命を助けてくれたので、悪い人ではないはずだ。信用しても大丈夫だろう。
わたしは少年に促されるまま、再びピジョットの背に身を預けた。心なしか、雨風が少し弱まっているような気がした。
街に着くと、わたしたちはさっそくポケモンセンターへ向かった。わたしはチルタリスを、彼はピジョットをジョーイさんに預ける。ポケモンセンターにはこれまでに何度も訪れているのに、無機質でも温かみのある壁が、今日だけはずいぶんと明るく見えた。
ずぶ濡れのわたしたちを見たジョーイさんは、「風邪引いちゃいますよ」と親切にもタオルを手渡してくれた。優しい声に優しい笑顔。彼女が女神に見えるのは、きっとわたしだけではないはずだ。
ジョーイさんに感謝の言葉を述べ、わたしたちはロビーの椅子に並んで腰を下ろした。
「えっと……名前、聞いてもいいかな? わたしはナマエ」
「おれはハヤト」
ハヤトと名乗ったその少年は、人の好さそうな笑顔を浮かべた。
「あ、ところで――」
何かを思い出したように、ハヤトくんは言葉を続ける。
「ナマエ、きみはジョウトに来たばかりだと言っていたよな」
「うん」
短い返事をするわたしの傍らで、ハヤトくんはごそごそと懐を探り始めた。どうしたのだろうか。
しばらく黙ってその様子を見守っていると、少しして、ハヤトくんは「あった」と呟いた。そして、懐から取り出した何かを、わたしに差し出した。それは紙でできていた。
ハヤトくんの手からその『紙』を受け取って、さっそく開いてみる。それは、ジョウト地方とカントー地方の二つが記載された、観光者用の簡易地図だった。
視線を彼に戻すと、彼は相変わらず優しい笑顔を浮かべていた。
「きみにあげるよ。少しは旅の役に立つと思うんだ」
「いいの? ハヤトくんは困らない?」
「問題ないさ。今日たまたまカントー地方に用があって、そのとき観光所でもらったものなんだけど、おれにはもう必要ないから。きみが持っていくといい」
ハヤトくんの言葉のすぐあとに、澄んだ声色で「お待たせしました」と聞こえた。ジョーイさんだ。わたしたちはほぼ同時に腰を上げた。借りていたタオルをジョーイさんに返して、それぞれポケモンを受け取る。
「それじゃあ、おれは行くよ」
ポケモンセンターを出ると、いつの間にか、雨は止んでいたらしかった。
ハヤトくんは再びピジョットをボールから出し、自然な動作でその背に掴まる。曇天からわずかに漏れた月明かりが彼を美しく照らし、その姿は、さながらおとぎ話に出てくる王子さまのようだ。
「いろいろと親切にしてくれてありがとう」
ゆっくりと離陸するハヤトくんに声をかけると、返事はなかったものの、彼はピジョットの背からこちらを見下ろし、ふ、と柔らかい笑みを浮かべた。その瞬間、言葉にできない感覚が胸に押し寄せてきて、わたしは彼から目を離せなくなる。夜の闇に彼の姿が溶け込むまでその背を見送り、ついに点さえも見えなくなったところで、やっと息をつけた。
こんな気持ちになったのは初めてだった。緊張、安堵、興奮――その全てが一つになったような、そんな、名前もわからない感情。ただ一つたしかなのは、彼にまた会えないだろうか、と胸の奥で願っている自分がいることだ。
彼の消えた空を見上げると、鉛色の雲が移動を始めたようで、その隙間から、星々が顔を出し始めていた。
今日はもう休んだほうがいいだろう。わたしは再び、ポケモンセンターの扉をくぐった。いい夢が見られそうだ。
それからしばらくのあいだ、ハヤトくんにもらった地図を頼りに、わたしはジョウト地方の街を見て回った。自分にとって新しい土地を観光したかったのはもちろん、この地方に連れてきたのはパートナーのチルタリスのみだったため、新しい仲間探しも兼ねていた。
順調にジョウトのポケモンを捕獲し、地元のトレーナーたちとの勝負で育成もして、目的を果たすための準備は着々と整っていった。道すがら、ポケギアという高性能らしい道具も入手し、旅がますます賑やかになった。
そして今日、わたしはとあるポケモンジムの前に立ち、期待に胸を踊らせていた。なぜなら――。
「リーダー・ハヤト……」
命を救われたあの日から、ずっと、もう一度会えないかと思っていた彼の名前が、このジムの看板に刻まれていたのだから。道端で出会った友好的なエリートトレーナーが教えてくれた『キキョウシティのジムリーダー・ハヤト』の話は、本当だった。
同名の別人かもしれない。けれど、もし万が一、本人だったら。どんな顔をして、何を言えばいいのだろう。まずは改めて、あのときのお礼を述べたほうがいいだろうか。なんだか緊張してきた。あまり期待していると、別の人だったときのショックが三割増しくらいになるから、落ち着かなければ。
ジョウトの全ポケモンジムを制覇する――それが、わたしが今この地方にいる、本来の目的なのだから。
深呼吸を繰り返し、高鳴る胸を少しだけ静かにさせたあと、わたしは意を決してキキョウジムの扉を開いた。優しい追い風に背中を押されて、中へと足を踏み入れる。
挑戦者を待っていたジムトレーナーたちを難なく突破して、どんどんジムの奥へと進む。徐々に人影が見えてきて、その人物の姿かたちをしっかりと目視できるようになったころには、せっかく落ち着かせたわたしの心臓が、またばくばくとやかましくなっていた。
「ハヤトくん!」
そこにいたのは、紛れもなく、あの日わたしの命を救ってくれた、あの少年だったのだ。
「きみは……ナマエ……?」
恩人――ハヤトくんは、えらく驚いた様子で、男の子にしては大きめな目を見開いている。
わたしは足場を気にしながら、ゆっくりと彼のそばへ歩み寄った。
「驚いたな……どうしてここに?」
「それはもちろん、ジムリーダーに勝負を挑むためだよ。でも、それ以前に――ハヤトくんに、会えると思ったから……」
言いながら、顔が熱くなってくる。わたしはいても立ってもいられなくなり、彼から視線を逸らした。
この言い方だと、なんだか、本来わたしが伝えたかったことと、少し違う意味にも聞こえてしまう。彼に会いたかったのは紛うことなき事実だけれど、それは、改めて彼に感謝の言葉を伝えたかったからだ。言葉を選んで言い直そう、と、再び彼の顔を見ると、今度はわたしが目を見開くことになった。
「え、と……それって……」
ハヤトくんが、頬をほんのり赤らめて、気まずそうにしていたのだ。凛とした雰囲気を纏った彼が、こんな年相応の反応を示すなんて、なんとなく意外だった。出会ったときの彼は、若い見た目のわりに、大人びた言動をしていた印象が強かったから。
「ち、違うの! へんな言い方してごめんね。えっと、改めてお礼を言いたかったから、その……」
「あ、そ、そうか! いや、いいんだ。おれのほうこそ、へんな反応してごめん……」
気まずさで言葉を失い、少しの沈黙が訪れた。先ほどまで賑やかにポケモンバトルをしていたのに、胸はうるさいくらいに高鳴っていたのに、なぜだかこの瞬間だけは、やたらと静かに感じる。
この気まずい雰囲気を、なんとかしなくてはいけない。原因を作ったのはわたしなのだ。
「えっと……あのときは本当にありがとう。ハヤトくんのおかげで、あれから順調に旅ができてるよ」
ハヤトくんは、先ほどまでの気まずそうな表情をやっと崩し、「それはなによりだ」と、出会ったときに見せてくれた、人の好い微笑をたたえた。
――ああ、この顔だ。ここに来るまでに、何度も思い出していた、ハヤトくんの笑顔。わたしはずっと、この笑顔に会いたかった。彼の笑顔につられて、わたしの頬も自然に緩んだ。
「そうだ、今日のきみは、ジムの挑戦者なんだろ?」
わたしははっとした。ハヤトくんに言われなければ、自分がここにいる本当の目的を忘れてしまうところだった。彼との再会が嬉しすぎて、ジム戦のことを頭の片隅に追いやってしまっていた。
「再会の記念も兼ねて、さっそく勝負をしようか!」
ハヤトくんの表情には凛々しさが戻っていて、その強気な視線は、彼が一人のジムリーダーであることをわたしに実感させた。
「うん! 負けないからね!」
「おれだって、ジムリーダーとして負けるわけにはいかないさ!」
モンスターボールから放たれる光線を合図に、彼とわたしの初勝負が始まった。
彼の鳥ポケモンは序盤からかなり手強い。わたしがこの地方で育成してきたポケモンたちは、彼のポケモンたちと相討ちになるかたちで、次々に倒れていった。
お互いに、それぞれ最後に残されたポケモンを場に出す。彼が切り札として出すポケモンは、容易に予想できた。きっと彼も同じだろう。わたしの切り札が、あのときのチルタリスであることなんて、勝負をするまえからわかっていたに違いない。
「きみのチルタリス、あのときはすごく疲れていたけれど、今日は元気そうでよかったよ」
「もちろん、この瞬間のためにコンディションを整えてきたからね。ハヤトくんのピジョットこそ、あの日よりももっとキラキラして見えるよ」
わたしは彼のピジョットに向かい、「あのときはありがとう」と声をかけた。このピジョットは、あの日、ハヤトくんと一緒にわたしの命を救ってくれたポケモンだ。わたしはもちろん、彼のピジョットにも感謝しているのだ。
ピジョットはわたしの言葉に応えるかのように一鳴きし、そして表情を引き締めた。バトルモードに切り替えたようだ。わたしのチルタリスも、臨戦モードでハヤトくんたちを見据えている。
「いくよ、チルタリス!」
わたしの言葉を合図に、ピジョットとチルタリスの激しい空中戦が開始された。
2018-01-22 BACK