暑い――いや、熱い。
背中をじんわりと湿らせる汗の不快感で、目を覚ました。寝汗というのは気持ちのいいものではない。
重い瞼をゆっくり持ち上げると、強すぎるほどの日差しが目を眩ませた。なるほど、もう昼なのか。どうりで気温が高いわけだ。眩しさに勝てず、ボクはもう一度、目を閉じた。
今度は、手で目元を軽く覆いながら開いてみる。指の隙間から見えるのは、見慣れない天井。それに少し驚いて、脳がようやく覚醒した。
落ち着いて考えると、特に驚くことでもないのだけれど。状況を把握するのにかかった時間は、一秒もない。
――ああ、まだ慣れない。
身体を起こして見回したこの部屋は、ボクのものではない。しかし、同時にボクの部屋でもある。数週間前から、ここがボクの寝床になったのだ。日の当たる明るいこの場所は、几帳面に整理整頓されていて、ボクが以前まで過ごしていたあの無機質な部屋とは、正反対の理性を感じさせる。
それにしても、起き抜けの目がごろごろするのは、どうしてだろう。ボクは目元をこすった。疲れているのだろうか。
特に何をするでもなく惚けていると、扉の向こうからパタパタと音が聞こえてきた。
「N~、そろそろ起きてよ~」
その音はやがて声に変わり、声は女性の姿となってボクの前に現れた。彼女は「あ、起きてたの」と呟く。
「おはよう。もうお昼だよ」
視界がなんだかチカチカする。日の光が眩しいのか、こするときに少し力を入れてしまっていたのか。
はたまた、彼女の姿が眩しいのか。
扉を開いて現れた彼女は、ボクの髪に似た色のエプロンを身に着けて笑っていた。そのすぐ足元では、ボクと一緒にこの家へとやってきた小さなゾロアが、彼女と同じように、笑いながらボクを見ている。ボクは二人に「おはよう」と返事をした。
「お腹空いてない?」
彼女はボクのそばに寄った。
正直なところ、起きたばかりで、空腹なんてあまり感じてはいない。けれど、とりあえず「少しだけ」と答えて、ボクは彼女を見つめた。
すると彼女は、笑みを崩さずに「今から作るね」と言って、その身を翻した。ボクはすかさず、離れようとする彼女の手首を掴む。彼女は振り向きながら目を丸くし、「N?」、ぽつりとボクの名を呼んだ。
「ナマエ」
ボクは彼女の名を呼んで、その柔らかい髪に触れる。彼女はもう一度ふわりと笑顔を浮かべ、ボクの額に口づけを一つ落とすと、今度こそ部屋を出ていった。
――幸せ、だ。
彼女が閉じた扉を見つめながら、ふとそんなことを思った。
ボクがいつまでも動きを見せないのにしびれを切らしたのか、急かすように、ゾロアがボクの膝に跳び乗った。どうやら、彼はかなり空腹らしい。一鳴きして、ボクに早く起きるよう催促してきたのだ。
「わかった、そろそろ起きるよ」
ボクはゾロアに笑いかけた。
ベッドを出ると、ボクはすぐに、目覚ましも兼ねてシャワーを浴びた。汗でベタついてしまった身体を洗い流すと、起き抜けでぼんやりしていた気分も、すっきりとして清々しい。
髪に残る水気をタオルで軽く拭き取り、着替えの白いTシャツに袖を通すと、洗い立てなのだろうか、優しい香りがふわりと鼻孔をくすぐった。この香りは好きだ。彼女がいつも纏っているものと、同じ香りだから。なんだか安心する。
「N、ごはんできたよ」
脱衣所のドア越しに、彼女の声が聞こえた。
そういえば、お腹が空いたかもしれない。「すぐに行くよ」と返事をして、ボクはまだ湿ったままの髪を適当にまとめた。長い髪は乾かすのが面倒だ。それでもボクが髪を短くしないのは、彼女がボクの髪を好きだと言ったからだ。
鏡に映る自分の姿は、数ヶ月前とは違う、どこか平和ボケした頼りなさを感じさせた。
用意された食事は、アルデンテに茹でられたパスタが丁度いい歯応えの、ナポリタンだった。白いTシャツにシミを作らないよう、気をつけながらフォークでパスタを巻き取り、口に運ぶ。うん、おいしい。彼女の作る料理は、どれも素朴な味がする。
ボクの足元では、小さなゾロアが、ポケモンフーズを夢中になって食べている。
ボクたちが食事をしているあいだ、彼女はベランダで洗濯物を干していた。風が彼女の髪を揺らす。ちらりと見えた額が、小さな光を放った。きっと汗をかいているのだろう。エアコンの効いたこのダイニングと違って、外は暑いようだから。
「なぁに、N」
ベランダと室内を隔てている窓が、カラカラと音を立てて開いた。彼女がボクに笑いかけている。いつの間にか、ボクは食事の手を止めて彼女に見入ってしまっていたようだ。
ゾロアはボクよりも先に食事を終えたようで、ベランダから室内に上がった彼女の方へ、尻尾を振りながら近づいていった。
「ほら、Nも早く食べちゃって」
ボクは、皿の上に少しだけ残されたナポリタンを、彼女に言われたとおり口に運んだ。「ご馳走さまでした」と呟いて食器を下げると、彼女は「お粗末さまでした」と言って笑った。
ああ、どうしようもなく幸せだ。こんな日々がずっと続けばいいのに。少しまえまでボクが望んでいたことや、探していたもの、その全てが大袈裟であったのだと思えてしまうほど、今は、この小さな日常が愛しい。
〝おかえりなさい〟と言って彼女がボクを抱きしめたあの日、ボクは彼女と生きることを決めた。彼女が、彼女のポケモンがボクを許したあの日、今のボクは生まれた。以前のような、大それたことを望むボクは、もういない。
「ナマエ」
スキだよ――彼女を抱きしめると、彼女は「わたしも」と言ってボクの背中に腕を回した。
人々に理解されなくても、何に裏切られても、もう構わない。この温もりを守るために生きられるのなら、それがボクの幸せなのだから。
BGM:日曜日/back number
2015-08-08 BACK