ほら、また余計なことを

 憂鬱な梅雨がやってきた。ここ数日はずっと雨が降っている。鉛色の空はどんよりと重い。空気も湿気を帯びていて、肌に張りついてくるようなその感覚が、とても不快だ。天候に影響を受けてか、気分までなんとなく落ち込んでしまうのは、どうにかならないものだろうか。
 そんなことを考えながら、わたしは、岬の小屋の小さな窓から、外の景色を眺めていた。
「はぁ……」
「なぁ、溜め息しか出されへんの?」
 ずっとパソコンに向かっていたマサキさんが、心底イヤそうな様子で、眉間にシワを寄せた。
 そんなことを言われたって、こんな天候なのだ。溜め息の一つくらい漏れてしまうのは、仕方がないことだと思う。
「さっきからなんやねん。こっちの生気まで奪われてしまいそうやわ」
「なにもそこまで言わなくても……」
「ほんまのことやん」
 きっと、いつも小屋でシステムの相手をしているマサキさんにとっては、外界のことなど大した問題ではないのだろう。
 けれど、わたしはマサキさんとは違うのだ。
「マサキさんって――」
 雨降り空しか見せてくれない窓に背を向け、わたしはマサキさんに声をかけた。この際だから雑談でもしよう。それで、少しでも気が紛れるといいのだけれど。
「おう?」
 マサキさんは相変わらず、パソコンに向かっている。とは言え、とりあえず相手はしてくれるようだった。
「毎日まいにち、一日中ここに籠もりっぱなしで、憂鬱な気分になったりしないんですか?」
「はぁ?」
 何を言っているのだ、この小娘は――そんな言葉が返ってきそうな呆れ顔で、マサキさんはこちらを向いた。わたし、どこかで言葉を間違えてしまったのだろうか。
「わいにも外回りくらいあるわ。これでも、それなりに忙しい身なんやで」
 マサキさんは続ける。
「ポケモンセンターのパソコンも定期的にメンテナンスしとるし、ちぃっとでも不具合が出たら、飛んでいかなあかんし……。わいかて、そないにいつもいつも、ここにおるわけとちゃいますー」
 しみじみと語ったマサキさんは、締めくくりに、一つ盛大な溜め息をついた。先ほどわたしの溜め息にぐちぐちと文句を言ってきたのは、いったいどこの誰だったか。
「大変なんですね」
「せやで。むしろ、憂鬱な気分を実感できるほどのヒマが欲しいくらいや」
「助手とか募集しないんですか?」
 これは素朴な疑問だった。そんなに忙しくしているのなら、助手の一人でも雇えばいいのに。そのほうが、マサキさん自身にかかる負担も軽減されるだろうに。
 ――あ、でも、助手が女性なのはなんとなくイヤだな。遊びにきづらくなってしまうかもしれないし。
「んー……そらおったら助かるやろなぁ。せやけど、今のところ、わい一人でも手は足りとるしなぁ」
 マサキさんの言葉に、なぜか安心したわたしがいた。自分で助手の件を持ち出しておきながら、やっぱりこの人には、一人でいてもらいたいと思ってしまう。
「わたしが立候補とか、できたりします?」
 ――訂正する。わたしはきっと、マサキさんに一人でいてもらいたいと思う傍らで、わたし自身がマサキさんの近くにいたい、と浅はかにも望んでいるだけなのだろう。考えるよりも先に、思わず口走ってしまった言葉が、それをよく物語っている。
「……正気か、ナマエ?」
 マサキさんはいぶかしげな表情をした。
「どういう意味ですか」
「自分、機械音痴やん……」
 しまった。イタイところを突かれてしまい、わたしの顔はぎくりと引きつった。
 たしかに、わたしは機械音痴だ。ましてや、各地のトレーナーに直接的な影響を及ぼすであろうボックスシステムの扱いなんて、とてもできそうにない。わたしにできることといえば、せいぜい、ボックスに預けられているポケモンを、全て野生に帰すことくらいだろう。
「うっ……いや、でも、洗濯とか料理とか、家事だったら、それなりにできますよ」
「それやったら、助手やのうてただの家政婦さんやないか」
 マサキさんは苦笑した。
「うぅっ……」
 なんだか情けない気持ちになってきたわたしは、とうとう笑顔を作ることすらできない。代わりに、眉も口角も、顔面のあらゆるパーツを全て下げてみせると、マサキさんはクスリと笑みをこぼした。
「まぁ、なんや。家政婦として雇われるより、もういっそ、わいのお嫁さんになったらええやん」
「……は?」
 え、今、なんて言った? マサキさん?
「ソネザキナマエ……うん、なかなかしっくりくるな」
「え、ちょっと、マサキさん?」
 顔が熱い。
 マサキさんは、もしかして、わたしの願望に気づいているのだろうか。それとも、ただ単にからかっているだけなのか。言葉が出ない。否、出せない。どう返したらいいかわからないうえに、口を開くと余計なことを口走ってしまいそうだから。
「なぁ、ナマエ?」
「え、と……」
 棒立ちでマサキさんを凝視するわたし。しかし、次の瞬間には「ぶはっ」と盛大に噴き出す声が聞こえ、わたしの身体はピシリと硬直した。
「わはは! 冗談や! そもそもわいら、恋人ですらないしな」
 わたしのたじろぐ姿が、そんなにおもしろかったのだろうか。マサキさんは愉快そうに大口を開けて笑い、目尻に涙を溜めている。一方で、わたしは、それを相変わらず強張った表情で見つめている。わたしの思考は、もはや完全に停止していた。
「ははは! 自分、意外とウブな反応するんやなぁ、ナマエ! はは、は……って、ナマエ?」
 反応を示さないわたしに気がついたのか、マサキさんは、指で目尻の笑い涙を拭いながら、不思議そうにわたしの様子を伺った。
「お、お~い、ナマエ~?」
 そして、ついに椅子から腰を上げ、わたしの目の前まで足を運ぶ。さらに、わたしの顔の前でヒラヒラと手を振ってみせるも、当のわたしは、何を言おうかと考えることに必死で、マサキさんの手を目で追うことすらしなかった。
「しもた……怒らせたか……?」
 マサキさんの表情に、焦りの色が見え始める。その顔に一瞬だけ、ピカッと光が当たった。
 さすがに、そろそろ何か言ったほうがいいのかもしれない。わたしは、言葉を探しつつ、口内に空気を通した。
「わたしが――」
 言いかけた瞬間、背後で大きな音がした。雷が落ちたのだ。その音に対してか、はたまた久しぶりに言葉を発したわたしに対してかはわからないけれど、マサキさんの肩がビクリと反応する。
 先ほどまであまり気にならなかったはずなのに、今は雨の降りつける音がやけにうるさく感じられる。雨足が強まったようだ。
「お、おう?」
「わたしが……マサキさんの恋人に、立候補、とか、できたりします?」
「は!?」
 少し蒼ざめていたマサキさんの顔が、一瞬にして耳まで真っ赤になった。
 マサキさんは、釣り上げられたコイキングのように、パクパクと口を開閉させている。わたしはというと、そんなマサキングさんの傍らで、ただひたすら後悔に苛まれていた。
 ああ、やっぱり、何も言わなければよかった。

2015-06-30 BACK