飲んで呑まれて溺れました

 アンティーク調の壁掛け時計が午前一時を回ったころであった。真夜中の静けさに包まれた、とある一軒家にて、無造作にドアが開閉される音が響いたのだ。
 すでに床に就いていた、この家の住人の一人であるナマエは、その物音に異変を感じ、はっと目を覚ました。こんな時間に誰だろう、などと思考する余地はない。ナマエは考えるよりも先に、真夜中の来訪者に気づかれぬよう、ゆっくりと身を起こした。
 今晩、夫は友人と酒を飲み交わしているので帰りが遅い。そのため、現在この家には、何かあったとき頼りにできる男性がいない、ということになる。今夜のナマエには、己とパートナーのエーフィだけが頼りだった。
 安定しない足音がナマエのいる寝室に近づいてきている。ナマエが枕元のモンスターボールに手をかけた、そのときだった。
「ナマエ~」
 なんとも覇気の感じられない声が、彼女の名を呼んだ。その一声で、ナマエは、この来訪者が誰であるのかを即座に理解した。
 緊張の糸が解け、ナマエは溜め息を漏らした。それに続き、寝室の引き戸が勢いよく開かれる。
「あ~ナマエ~」
「……おかえりなさい」
 明かりも点けずに、暗闇の中、フラフラとナマエに近づく真夜中の来訪者――もとい、帰宅した家主、マツバは、愛する妻の目の前に到達すると、重力に身を任せて座り込んだ。
「ずいぶん飲んだみたいね」
「えへへ~、ナマエ、ただいまぁ」
 普段見せているミステリアスな雰囲気はどこへやら。マツバは暗がりの中、手探りでナマエに触れると、倒れ込むようにして彼女に抱きついた。
 ナマエはマツバの身体を支えながらも、とりあえず明かりを点けよう、とプルスイッチに手を伸ばす。
 寝室が明るくなると、マツバは目を細め、「眩しいなぁ」と声を漏らした。
「今お水持ってくるから」
「うん~」
 ナマエは布団から出て立ち上がった――ものの、マツバが依然としてナマエに張りついている。それに対し、ナマエは多少の罪悪感を感じながらも、これも夫のためだ、と少し強引にマツバの腕を振りほどいた。
 マツバはそのまま布団に倒れ込む。
「ナマエ~」
「はいはい、すぐ戻るから」
 布団に顔をうずめたままのマツバを残し、ナマエは寝室をあとにした。
 普段は嗜む程度なのに、こんなに泥酔するまで飲むなんて彼らしくない――などと考えながら、ナマエはコップ一杯分のおいしいみずを持って寝室に戻った。
「ほら、マツバ。お水持ってきたよ」
「う~ん……ナマエ~」
「はいはい、なぁに」
「ん~」
 倒れ込んだ姿勢のまま、マツバは顔だけをナマエの方に向け、キスをせがんだ。
 子供のような夫の姿に少し呆れつつ、ナマエはコップを少し離れた場所に置くと、そっとマツバに口づけを落とす。
 顔を離すと、マツバは頬をほんのりと染めて、へにゃりと緩い笑みを浮かべた。
「ふふ、ぼくの奥さん~」
「えっ――ちょ、ちょっと、マツバ!」
 マツバは飛びつくようにナマエを押し倒した。敷布団が二人を優しく受け止める。
「もっとして」
 ナマエの上で相変わらず顔を緩めているマツバは、瞳を潤ませながら、さらに要求した。
 ナマエは気恥ずかしさを覚えたが、素直に応じた。
「ん……」
「……マツバ、お酒くさい」
「気にしないで~」
 何度目かの口吸いのあと、マツバは自身の全体重をナマエに委ねた。
 突然の重みに驚いて目を見開くナマエの耳元に、安らかな息遣いが聞こえてくる。かろうじて動く頭をマツバの方に向けると、案の定といったところか、彼は眠っていた。
「もう、仕方ないんだから」
「ん~……」
 できうる限りゆっくりとマツバの下から這い出で、ナマエはそっと彼に布団をかけた。
 マツバは、染まった頬はそのままに、しかし幸せそうな表情ですやすやと寝息を立てていた。

 翌朝、マツバは頭を殴りつける鈍い痛みで目を覚ました。身体を起こそうにも、襲ってくる吐き気と目眩がそれを阻止する。「うぅ」と声を漏らすと、先に起きていたのか、ナマエが寝室の戸を開けて顔を覗かせた。
「おはよう。大丈夫?」
「うーん……あまり大丈夫ではない、かな……」
「やっぱり。あんなになるまで飲むから」
 ナマエは一度台所に戻ると、すぐに粥と水の載った盆を持って戻ってきた。
「食べられそう?」
「まぁ、なんとか……すまないね……うっ」
「無理しないで……それより、昨日はどうしたの? 珍しいじゃない、あなたがあんなに飲んで帰ってくるなんて」
 ナマエの支えを受けながらなんとか身を起こしたマツバは、その問いに苦笑し、「実は――」と言葉を紡いだ。
「きみとのことをミナキくんに話したら、〝若いのに色気のない夫婦生活だな〟と言われてしまってね……」
「うん」
「それで〝今夜だけでも酒の力を借りて、熱い夜にしろ!〟と……たくさん飲まされてしまったんだ」
 ナマエは溜め息をついた。
 まったく、あの男は。トレーナーとしての夫のよさはよく知っているだろうが、夫としての彼のよさをわかっていない。あとで文句の一つでも入れてやらなければ。
 そんな夫婦の事情など露知らず、モンスターボールから出てきたエーフィとゲンガーは、部屋の隅で仲良くじゃれ合っていた。

2015-04-29 BACK