五年分の経験値【後編】

 ナマエは特にすることもなく、お気に入りのソファで天井を仰いでいた。
 このソファは、同棲を始めたばかりのころに二人で選んだ、思い出のソファである。チルタリスから抜け落ちた綿毛がふんだんに使用されていて、雲の上にいるのかと錯覚するような座り心地だ。
 再び眠りの世界に落ちそうになりながらも、ふと壁掛けカレンダーに目を向けたナマエは、一点だけ目立った箇所があることに気がついた。
「あれ……今日で五年なんだっけ」
 黄色の蛍光ペンでぐるぐると囲まれたその日は、紛れもなく今日であった。そして今日は、デンジとナマエが交際を始めて五年が経つ、いわゆる記念日であったのだ。
 ナマエは、これまでデンジと共にしてきた歳月を思い、胸が温かくなるのを感じた。頑固で精神的に不器用で、子供っぽいところもあるデンジだが、こうして変わらずそばにいてくれるのは、やはり彼がとても優しいひとだからなのだろう。
 愛しさが溢れ出す。温かい感情のその心地よさは、ついにナマエを眠りの世界へといざなうが――。
「うわっ!」
 負けじと、突然キッチンから聞こえた大声が、ナマエを現実に引き戻した。明らかに何かをやらかしたような声である。
 ナマエは考えた。手伝いに行くべきか否かを。
「大丈夫……だよね……?」
 熟考の末、ナマエは手伝いにいかないという決断を下した。一度追い出された身である以上、戻ったところでまた追い出されるのが目に見えている。そう考えたのだ。
 大人しくリビングで待つことを選択したナマエは、再度カレンダーに目を向けた。
「……ん?」
 先ほどの一点に、何か小さくメモが書かれているようだった。ナマエはソファから腰を上げ、カレンダーに近づいた。じっとその一点だけを見つめながら。
「『デンジ特製サンドイッチ』と『エッグスープ』……」
 メモされていたのは、どうやら献立らしかった。
 同棲を始めてから、家事、特に料理はほとんどナマエが担当してきた。デンジが献立を考えるときもあるにはあるが、彼は基本的に、いつもできあいのもので済ませている。
 しかし、自分はこんなピンポイントな箇所に献立をメモした覚えはない。ナマエは首を傾げた。いったい、誰が?
「……もしかして……」
 思い当たる人物はただ一人。デンジだ。
 ははぁ、そういうことか。ナマエは笑みをこぼした。これは、彼なりの気持ちなのだろう。バラバラだったものごとが繋がり始めたのと同時に、キッチンへと続くドアが開かれた。
「お待たせ」
 開いたドアから現れたデンジは、食事の乗った盆を手にしていた。なんとか料理を済ませたようだ。
 油が跳ねたのだろうか、彼の腕にはところどころ、赤い火傷痕のようなものがある。盆の上のサンドイッチと思しきものは、挟まれた具材が四方八方にはみ出しており、食べるのに難儀しそうだ。一方で、スープの印象は普通だった。
「お疲れさま」
「ほんと疲れたぜ……料理したら腹減った」
 デンジは慎重な手つきで、テーブルの上に食器を一つ一つ配置した。そして最後に調味料を置いて、食事の準備は整った。このとき、時計は午前十一時を回ろうとしていた。
「さ、食べようぜ」
「いただきます」
 手始めに、ナマエはスープに手をつけた。デンジはその様子を、戦々恐々と見つめている。穏やかな午前の一ときは、なんともいえない緊張感に包まれた。
「……うん、おいしいよ」
「本当か!?」
 不安そうにナマエの様子を伺っていたデンジの表情がぱっと輝いた。味つけは絶妙。口当たりのよいスープだ。
「さすがだな、オレ」
「もう、調子いいんだから」
 子供のようにはしゃぐデンジ。ナマエは呆れながらも笑みを浮かべた。
 しかし、問題はメインであるサンドイッチだ。はみ出した具材がこぼれてしまわないように気を遣いながら、ナマエはそれを手に取った。
 そのとき、つい先ほどまで嬉しそうにはしゃいでいたデンジの表情が、一瞬にして引きつったのを、彼女は見逃さなかった。
「ま、待て、ナマエ。ムリに食べなくていいんだからな」
「何言ってるの。せっかくデンジが作ってくれたんだから、食べるに決まってるでしょ」
 ナマエはそう言うものの、デンジは依然として不安な表情を崩さない。ナマエは、ゆっくりとした動作で、サンドイッチを口に運んだ。
「ん……」
「……ナマエ?」
 顔面蒼白――ナマエの無反応に怯えるデンジを表すのに、ぴったりな言葉である。
 サンドイッチを一口食べたナマエは、黙ってデンジを見つめていた。
 デンジは、何を言われるのかと気が気ではない。
「デンジ」
「お、おう……」
 しかし、ナマエが見せたのは、曇りのない笑顔だった。
「おいしい!」
「……そ、そうか……!」
 ナマエの言葉に、デンジの表情はやっと安堵の色を取り戻した。彼の作ったサンドイッチは、見た目こそ散らかってはいるものの、味はよかったのだ。
「ま、まぁ、やっぱりオレもやればできるもんなんだな」
「はいはい、そうだね」
 これを機に、これからはデンジも料理を――と、ナマエは心の中で呟いたが、決してそれを表立って伝えることはしなかった。さすがに野暮であると理解していたし、デンジの喜々とした表情を見ると、そんなことはどうでもよく感じられたからだった。
「デンジ、ありがとね」
「お、おう……どういたしまして」
 ナマエの素直な感謝の気持ちに照れくささを感じつつ、デンジはやっと自作の朝食を口にした。そして、思ったのだ。
 やはりナマエには敵わない、と。

2015-04-24 BACK