五年分の経験値【前編】

 無機質な目覚まし時計の音が室内に響く。
 カーテンの隙間から差し込む日の光に目を細めながら、ナマエはむくりと身体を起こした。大きく伸びをすると、意識が徐々に覚めてくる。
 そして気がついた。キッチンが何やら騒がしい。まだ完全には開ききらない寝ぼけ眼でのそのそとベッドから這い出で、ナマエはキッチンへと向かった。
「おはよう」
 ナマエの声に、ざく、ざく、とテンポ悪く包丁を扱っていた男、デンジが振り返った。姿勢はそのままに、彼は手の動きだけを止めて軽くナマエを振り返った。
「おう、起きたのか」
 デンジはそれだけ言って、再度まな板の上のキャベツに向き直った。
 ナマエは無言で彼の周辺に目を凝らした。よく見ると、デンジの足元がてかてかと光っている。そしてさらに、シンクに設置してある三角コーナーにはぐしゃぐしゃに割れた卵が三つほど無造作に捨てられている。おそらく、デンジがやらかしたのだろう。ナマエはそう推測した。
「……何やってんの?」
「見たまんま。メシ作ってんの」
 デンジはキャベツと向き合ったまま、危なっかしい手つきで包丁を動かす。その様子からは、ポケモンを与えられたばかりの子供が、キズぐすりやどくけしを持たずに外の世界に飛び出すのと同等の危険が感じられた。
 ああもう、見ているこっちがヒヤヒヤする――ナマエは心の中で呟いた。
「あのさ……大丈夫?」
「オレを誰だと思ってるんだよ。料理くらい朝飯ま――いってェ!」
 得意気に答えようとしたデンジではあったが、ほんの一瞬の油断が、自身の人差し指を傷つけた。傷口から溢れ出す鮮血が、まな板の上に赤い点を作る。
「言ったそばから……ほら、見せて」
 呆れた様子でデンジのそばに寄ると、ナマエは少し強引に彼の手を取った。まずは傷の程度を確認する。
「手当てするから、指洗って待ってて」
 そう言い残し、彼女はパタパタとキッチンを後にした。
 残されたデンジは、もちろん素直にナマエの言うことを聞くはずがない。彼は「こんなの、舐めとけばすぐ治るだろ」と呟くと、人差し指を口元に運んだ。
「ちょっと。洗って待ってて、て言ったでしょ」
 救急箱を持って戻ってきたナマエは、ただ指を舐めているだけのデンジを見て溜め息をついた。
「へーへー。今洗うよ」
 おもしろくなさそうに、デンジは傷口を洗浄する。
「……なんなら、ナマエが舐めてくれてもいいんだぜ、オレの指」
「こんな朝っぱらから何言ってんの。いいから手出して。ほら」
 デンジの浅はかな期待は虚しくも一蹴された。
 ナマエは強めにデンジの手を引くと、指の傷口に消毒液のついた綿を押し当てた。微かに痛みを感じたのか、デンジは眉間にシワを寄せる。しかしそんなことはお構いなしに、ナマエは手際よく手当てを進めていく。締めくくりに絆創膏を貼って、ようやく、ナマエはデンジを解放した。
「まったく。シンオウ最強のジムリーダーさまともあろう男が、まるでお手伝いを始めたばかりの子供みたい」
「う、うるさいなぁ……人には得手不得手ってものがあるだろ」
「普段は何ごとにも自信満々のくせに」
 ナマエはデンジが散らかしたキャベツを丁寧に――なおかつデンジとは打って変わってテンポよく――切り刻みながら、溜め息混じりに「やれやれ」と呟いた。
「そもそも、何作ろうとしてたの?」
「まぁ、ちょっとな」
「えー? 本当は何も考えてないとか?」
「ざっくりとは決まってるよ」
 よくよく見ると、とりあえず調理可能な材料だけは揃っているようだった。卵がパックから三つほど姿を消しているのを除いては。
 ナマエが再び三角コーナーに目を向けると、デンジはバツの悪そうな表情を浮かべた。どうやら、やはりこの男が犯人らしい。
 ――これ以上続けさせたら、デンジがもっと大きな怪我をしかねない。彼は手先は器用でも、料理はからっきしだめなのだ。
「あとはわたしがやるから、デンジはリビングでゆっくりしてて」
 見兼ねたナマエは、デンジにむりをしないよう促した。
 ところが、デンジはそのナマエの言葉に対し、あからさまに顔をしかめ、「それじゃ意味がない」と一言、呟くように、しかしハッキリと言った。
「は? なんで?」
「なんでもだ。とにかく! オレがやるから、ナマエはリビングにいろ」
「え、ちょっと……」
「オレは大丈夫だから!」
 威勢のいい言葉を最後に、キッチンとリビングを隔てるドアが、勢いよく閉じられた。リビングに追いやられたナマエはドアと向き合い、ぱちくりと目を瞬かせる。
「……もう、しょうがないなぁ」
 強引にキッチンを追い出されたナマエは、仕方がなく、リビングで待つことを選択した。
「あっつ!」
「……ほんとに大丈夫かなぁ」
 しかしながら、リビングまで聞こえてくる恋人の悲鳴は、ただただナマエの不安を煽るだけだった。

2015-04-23 BACK